第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ
 以前、電車でデリーからヴァラナシに行った際、途中駅にラクナウ(Lucknow)があることを知った。高校時代、世界史を勉強していて、何となく記憶にあったんで、いつか時間を作って行こうと思っていた。
 今回、丸1日使って観て回った。


150年前の英印大激突の地

第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_201771.jpg ラクナウという名前、どこかで聞いたことあるなと思ってたら、世界史だった。僕のイメージは、英領インドにおけるイギリスの拠点の1つで、1857年のインド大反乱(セポイの反乱をはじめとするインド諸地域の反乱)で大きな戦いが行われた場所、である(詳細は後述)。

第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_2023848.jpg インド人には、ラクナウはウッタル・プラデーシュ州の州都で、汚職まみれの政治、北インド随一の公害発生地というイメージしか無いみたいだった。恐ろしく派手な門構えの州知事邸、分不相応に広大な敷地に颯爽と建つ役人の家々、正しい数値かどうか疑わしい有害物質の数値ボードなどなど・・・。
 街並みについては、道は綺麗に整備されていて、悪い印象は持たなかったけどな。


 さて、話は戻ってラクナウの歴史。

 元々、この地域はムガル帝国の支配下にあり、アワドと呼ばれていた。アワド太守は当然ムガル帝国の一配下に過ぎないが、18世紀に入ってムガル王朝が衰退し始めると、ときのアワド太守サーダド・ハーンは独立を目指すようになる。
 ところが、時代はイギリスの東インド会社がインドでの支配権をほぼ全土に広げつつあった頃(1757年のプラッシーの戦いで、インド植民化のライバルであったフランスを破っている)。アワド太守軍は、1764年にこの東インド会社軍と対決、手痛い敗北を喫した挙句、イギリスの監督下におかれてしまう。
 このような状況下にあっても、アワド太守は王国建設を諦めることなく、1775年遷都(当時の都ファイザーバードから立地の良いラクナウにシフトした)、1800年英国駐在官官邸(総督代理公邸とも言われる、イギリスとの懐柔政策の一環)などを経て、1819年にムガル帝国からの独立を宣してアワド王国を建てた。
 1856年、無能なアワド王ワーシド・アリ・シャーをイギリスがコルカタに追放、アワド王国は滅亡する。これが翌1857年のインド大反乱に発展、ラクナウの反乱軍は1858年に鎮圧されるも、前述の英国駐在官官邸などは壊滅的な打撃を被った。

第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_21494957.jpg 現在のラクナウは、インドにおける政治の実質権力を握るウッタル・プラデーシュ州の州都ということもあり、政治色が強い。立派な議事堂に、ゴージャスな政府関係者官邸、整備された道路インフラなど、とても洗練された印象を受ける。
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中世・近代・現代

第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_2120895.jpg この街での見所は、数は少ないが、色んな時代の建物があって面白い。
 タクシーを借り切って回った(750ルピー、約2000円)。写真は、運転手のラーケスさんと愛車のヒュンダイ・サントロ(何故か政府関係のナンバープレートをつけており、どこに駐車しても御咎め無しだった!)。

バラー・イマームバラ(Bara Imambara)
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_2121935.jpg 文字通り訳すと、「バラー=大きい」「イマーム=指導者」「バラ=御堂」ってな感じ。旅行関連書籍などでは、イマーム記念大堂とか書いてあるが、意味不明である・・・。1784年、アサフ・ウドゥ・ダウラーの命によって建てられた御堂とその周辺建物群。設計者はキタヤトゥッラー。
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_21393123.jpg 3階建ての巨大な丸屋根のホール・・・高さ16m、長さ47.71mは世界最大(らしい)。写真は、全体像とモスク。


チョーター・イマームバラ(Chota Imambara)
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_21532915.jpg  文字通り訳すと、「チョーターー=小さい」「イマーム=指導者」「バラ=御堂」ってな感じ。正式名称をフサイナーバード・イマームバラというらしいが、上記のバラー・イマームバラと比較して小さいことからこのように呼ばれている。
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_23595898.jpg 中央の建物のドームには金箔が貼られ、内部もたくさんのシャンデリアや金製の装飾品、宗教儀式用品などが展示されている。



英国駐在官官邸(総督代理公邸) 跡
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_0154725.jpg 前述した通り、1800年に建てられた屋敷群。住居施設のほか、カンファレンス・ホールやダンス・ホールなどもあったようで、さすがイギリス軍の重要拠点ラクナウの施設だけある。

第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_0271361.jpg 1857年、インド軍がここを包囲し、持久戦に突入。立て篭もったイギリス軍及びその関係者3,000人は3ヶ月間援軍を待ち続けた。その後、援軍が到着するも、すぐには戦いは終わらず、戦死者・病死者・餓死者が大量発生する阿鼻叫喚の様相となった。この戦いで全体の3分の2にあたる2,000人が死亡した。
 残念なことに、当時の屋内を再現した博物館は定休日(毎週月曜日)のため観られなかった。


 この官邸の入口にあった説明板を見ていて、大変興味深いなと思ったことが1つ。
 それは、この1857年のムーブメントについて、繰り返し「First independence war」つまり第1次独立戦争という表現がなされていることだ。僕らの感覚(欧米人も恐らくそうだが)では、インドの独立とこれに及ぶムーブメントは、1939年のイギリス-ドイツ開戦による反戦運動から始まって1947年の独立に至るまでのせいぜい10年間くらいではないだろうか。我々の知る運動家(政治家)ガンディー、ネルー、ボースらはこの頃に活躍した人たちだ。インド人にとっては、このムーブメントは第2次独立戦争と意識されているようだ。
 ・・・なかなか興味深い歴史観の違いだ。



アンベードカル記念公園
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_048386.jpg 文字通りアンベードカル(フルネーム : ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル)の功績を讃える意味で建てられた公園。市の中心部からはちょっと北西に離れたところにある。
 彼の活動については、以前メーラトというところに行った際に見かけた彼の像がキッカケで、色々関連書籍を読み漁った。
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_119828.jpg 指定カースト(不可触賤民)出身であり、インド独立運動と同時期に、インドからカースト制をなくそうと尽力した政治家だ。彼は、ガンディーの採ったカースト制の枠組みの中で低カースト/指定カーストへの差別をなくすという甘い柔和策に真っ向から反対し、カースト制自体の破壊を唱えた。殆どの人は、ガンディーはカースト制に反対したと思っていないだろうか。かくいう僕もそうだった。実際はその反対・・・ガンディーは、最高カースト位ブラーミンのガッチガチのカースト制擁護論者だ。
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_254358.jpg ガンディーとアンベードカルとの対立が最高潮に達したのは、1932年。イギリスがインドで高まる独立機運に対して団結力を削ぐ政策を打ち出す・・・職業や宗教のカテゴリーごとに代表者を選出して議会(国会や州議会)に参加させると言い出した。このカテゴリーがクセモノで、イスラム教徒・キリスト教徒を個別のカテゴリーにすることにOKを出したガンディーは、指定カースト(不可触賤民)は個別カテゴリーじゃなくて同じヒンドゥー教徒でしょという判断。これに対し、アンベードカルは、「社会の中で動物以下に見做されながら都合の良いときだけ同じカテゴリー扱いはないだろう」と猛反発。ガンディーはヒンドゥー社会から最下層者が抜けることに危機感を覚え、1人ハンガーストライキを敢行(今でもヒンドゥー至上主義者からは「死の断食」と賞賛されている)。結局餓死寸前までいって、アンベードカルが折れた。
 その後アンベードカルは結局、自身がヒンドゥー教徒である限り、これと渾然一体たるカースト概念のみを分離/破棄することはムリと断念、1956年に仏教に改宗してしまった。そしてその直後この世を去る。改宗を行った場所であるナグプールは、今なおインド仏教の一大活動拠点となっている。

 現在、彼の仏教思想(ネオ・ブッディズムと言われる)の継承者と言われているのは、なんと日本人僧の佐々井秀嶺。1968年にインドに渡って以降、下位カースト者・指定カースト者への仏教改宗支援活動、仏教施設の所有権闘争など、インドの仏教徒の顔になっている。
 一方、政治家としてアンベードカルの遺志を継いでいるのが、女性政治家マヤワティだ。大衆社会党(略称BSP)の女性党員であり、前ウッタル・プラデーシュ州知事でもある。ここまでは、女性首相が歴史的に存在するインドにあってはさして珍しくないが、彼女は指定カースト者なのだ。BSPの支持基盤は勿論指定カースト者。1997年の知事就任時には、この記念公園を訪問したそうだ。

 この広大な公園には、中央の建築物を除いて何も無い。アンベードカルの活動を記した石碑を読む人は僕以外に1人もおらず、高カースト家庭に属する思われる綺麗な制服を着た子供たちの修学旅行地、あるいは、これまた高カースト家庭に属すると思われる若者たちのデートスポットと化していた・・・皮肉な活用のされ方だ。



議事堂
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_275561.jpg 州議会が開催される議事堂で、市の中心部にある。当然、中に入ることは出来ない。



迎賓館
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_245378.jpg タクシーの運転手は、「サハラ」と言っていた。内容を聞くと、どうやら迎賓館のようだった。立派な門の下には神様の像が(ヴィシュヌ神かな、でも女神のような気も・・・)。
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オマケ

原宿系
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_2105084.jpg こちらは、州知事邸の通りに並んでいたグッズショップの1つ。現在の政権政党である社会主義党(略称SP)と州知事ナラヤム・シン・ヤーダヴに関連するグッズがズラッと並ぶ。訳も分からず、思わず色々買ってしまった・・・。
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チキン
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_2322846.jpg ここラクナウはチキン料理、なかでもカバブが名物。タクシー運転手ラーケスさんイチオシの定食屋へ。
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_240345.jpg 店の外も中も結構混雑していた。手早く、カバブ(ハンバーグ風)・ビリヤーニ(炊込みゴハン)・チキン丸焼き・ロマリーロティ(生地のうっすーいロティ)を頼む。とっても美味。しかもリーズナブルな価格(1品20ルピー前後)。
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_2402274.jpg 地元ではちょっと有名な店のようで、店内にはシャー・ルク・カーンやアミターブ・バッチャンら有名芸能人と店主との2ショット写真がたくさん飾ってあった。この辺の感覚は、日本のラーメン屋と変わらないな。



チカン
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ_e0074199_2404879.jpg チキンの他に有名なのが、チキンならぬチカン。太い糸での刺繍(ハンドメイド)が特徴的なシャツ・クルタ・サーリーなどの衣類品が名産品だ。
 目ざとく卸売り店を見つけ、無理矢理小売して貰った。シャツ1枚100~1000ルピー(約250~2500円)。素人目には、なかなか良い出来だと思う。



オススメ度(100%個人主観)

   ★★★★☆



by bharat | 2005-12-20 10:30 | インドぶらり旅