近くて遠い国 スリランカ

近くて遠い国 スリランカ_e0074199_3214199.jpg 先日、インドの隣国スリランカへ行ってきた。
 タミルナドゥ州のラーメシュワラムに行った際、目と鼻の先にあったスリランカ(肉眼で確認することは出来なかったが)について、もっと知りたいと思い、近いうちに行ってみたいと思っていた。

 限られた日数で、効率良く周遊したかったので、どういうルートで周るか研究した。
 我々日本人にとっては、インド以上に知らない国かも知れない・・・ということを痛感。



スリランカという国の概要

近くて遠い国 スリランカ_e0074199_593174.jpg名称:スリランカ民主社会主義共和国

面積:65,600km2(北海道の8割)
首都:スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ
人口:約1,950万人
民族:シンハラ人(73%)・タミル人(18%)・ムーア人(8%)・バーガー人(1%)
言語:シンハラ語・タミル語
宗教:仏教(70%)・キリスト教(11%)・ヒンドゥー教(10%)・イスラム教(9%)
GDP:3,700USD(1人あたり)


 余談だが、シンハラ語については、日本で正式に研究している先生は1人だけで、日本で同言語を習いたい場合はその先生に頼むしかないという。・・・まぁ、在日スリランカ人に頼めば教えてくれるだろうけど。


スリランカの歴史

 スリランカという名は、意外に新しく、1972年5月22日にイギリスからの完全独立時に正式に命名されたもの。それ以前は、セイロンと呼ばれていた・・・紅茶のブランド名で有名だ。今でもスリランカの島はセイロン島の名で呼ばれている。

 スリランカの歴史がスタートしたのは、紀元前5~7世紀頃と推測されており、北インドからの移民が発端であったと言われている。現在のスリランカの主要言語のシンハラ語がアーリヤ系言語であるのもこれに起因するという。
 その後、紀元前3~2世紀に仏教がインドよりもたらされた。伝説によれば、仏教伝播の主導者は、アショーカ王(関連する場所はこちら)の弟(あるいは王子とも)マヒンダだったという。彼が、ミヒンタレーの王を仏教に改宗させ、その後スリランカ全土に仏教が広まったとしている。仏教が栄えた1つの証拠として、ちょうどこの時期に、王都があった地アヌラーダプラに、大きな僧院(マハーヴィハーラ)が建てられた。因みにこの頃の仏教はおおむね小乗仏教(上座部仏教)だったが、大乗仏教も徐々に南インドから流入してきていたようだ。
 紀元前2世紀~紀元後1世紀の間は、南インドも巻き込んで、各地の王による覇権争いが激化した。まず、紀元前145年、タミルの王エラーラがアヌラーダプラを陥落させ、以降44年ここを統治したと記録がある。このエラーラを倒したのは、スリランカ南東のローハナ地方に拠点を置いていたドゥッタガーマニー、紀元前101年のことだった。
 紀元後5世紀頃に、アヌラーダプラの南東シーギリヤに巨岩王宮が建てられたが、この時期はまだスリランカ島(セイロン島)の北部が中心の歴史だった。

 これが大きく変化するのが、10世紀~11世紀初め。南インドのチョーラ朝が同地域のパーンディヤ朝を駆逐、パーンディヤ王はスリランカに逃亡してくる。これを追ったチョーラ朝がスリランカ北部を制圧し、都も、アヌラーダプラから中央東部のポロンナルワに移してしまった。この時期には、仏教建築物のほか、ヒンドゥー建築・信仰も行われていた。

 チョーラ朝がその後スリランカを放棄する政策を摂りはじめると、ローハナ地方から出たシンハラ王統のヴィジャヤバーフ1世がチョーラ朝を駆逐、ポロンナルワを王都に定めると、政治の安定、仏教の復興に尽力、治水設備の再整備や仏歯寺の建築等を行った。
 その後、マレーの諸勢力との拮抗状態が崩れ、南インド諸勢力が再度干渉を始めると、スリランカ北部は次第に彼らに侵食され、シンハラ王統は逃げるように南に移動、王都もポロンナルワからガンポラ、更には南西沿岸のコーッテへとどんどん南に移していく。

 15世紀末以降は、各地で王国が興る。コーッテの王国の他、セイロン島北端の諸島群ではタミル人のジャフナ王国が、中央山間部ではキャンディ王国が出現。コーッテ王国は、16世紀初めからポルトガルとコロンボを拠点にシナモン貿易を開始、交易関係を構築して、更には軍事的協力も受けるようになる。このときに築かれた砦が今でもゴールという地に残されている。
 コーッテ王国は、ポルトガルの海軍・大砲の力を借りて、ジャヌハ王国を支配下に入れ、残るキャンディ王国と対決することとなった。キャンディは、ポルトガルと同様積極的な植民地拡大政策を行っていたオランダと組んで、コーッテに対抗した。これが奏効して、キャンディ・オランダ連合は1658年にポルトガル勢力をセイロンから一掃することに成功した。

 1802年、オランダ・イギリスの植民政策・戦争により、スリランカはイギリスの支配下におかれ、1815年には、キャンディ王国がイギリスによって滅ぼされる。

 その後長くイギリス植民地となっていたが、1948年2月4日にイギリス連邦自治領という形で実質的独立を勝取る。1972年5月22日には、新憲法公布、国名改称(スリランカ民主社会主義共和国)して完全独立した。


スリランカにおける民族紛争

 この1972年の憲法の中に、仏教を特別扱いする内容があったとして、それまでくすぶっていたシンハラ人とタミル人との亀裂が表面化し、タミル統一戦線が発足、ここから過激勢力LTTE(タミル・イーラム解放の虎)が出現した。このLTTEは、全世界の中でも最も凶悪な組織とされ、昨今再危険視されているアルカイダが活発化するまでは、一番危険とされていたほどだ。
 1980年代には、政府軍とタミル勢力は全面戦争状態に突入したが、ノルウェーによる調停活動により、現在は停戦協定が発効中だ。
 しかし、ここのところ、北東部などでまたテロ行為が活発化しており、2005年8月12日にはカディルガマル外相が暗殺されるという事件が起きた。

 現在、コロンボなどの都市部や中央部の観光地などは平穏だが、外務省の海外安全情報では以下のようになっている(詳細地域名省略)。

 北部州:渡航延期・渡航是非検討
 東部州:渡航延期・渡航是非検討
 その他:十分注意

世界遺産は全部で7つ

 スリランカには、6つの文化遺産と1つの自然遺産がある。

 アヌラーダプラ(1982年指定)は、スリランカにおける仏教の聖地。
 ポロンナルワ(1982年指定)は、11世紀頃から王都がおかれた場所。
 シーギリヤ(1982年指定)は、5世紀に王宮が建立された場所。
 キャンディ(1988年指定)は、15世紀~イギリス支配期までのスリランカの王国があった場所。
 ゴール(1988年指定)は、15~17世紀にコーッテ王国と組んだポルトガルが軍事拠点を置いた場所。
 ダンブッラ(1991年指定)には、スリランカ最大の石窟寺院がある。

 シンハラジャ森林保護区(1988年指定)は、野生生物、樹木、低木、薬草などが手つかずで残されている世界でも数少ない原生林であるとして、自然遺産に登録された。


 このうち、今回は、6つの文化遺産を見てきた。
 詳細は、追々書いていく。
by bharat | 2006-04-14 10:30 | インド周辺国ぶらり旅