第94回旅行は、大日本帝国軍激戦の地コヒマ
 インド東部ナガランド州の玄関口であるディマプールから、東に約80km。
 州都のコヒマに到着する。
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悪路に次ぐ悪路
e0074199_17194536.jpg ディマプールから僅か80kmしか離れていないのだが、兎に角道の状態が悪い。
e0074199_17191879.jpg 標高差約2,000mを一気に上る山道の殆どは未舗装で、軟らかい土壌と多雨が災いして至るところに地すべり・土砂崩れの跡が見られる。
e0074199_21594655.jpg にも関わらず、この国道がアッサム州~ナガランド州~マニプール州を繋ぐ一番マシな物流ルートになので、大型車が多い。
 これらが行き違うたびに渋滞が発生する。
e0074199_17222064.jpg 本格的な雨季はまだだが、それでも一部区間では土砂崩れによる通行止めが発生。
e0074199_1723023.jpg マニプール州のナンバープレートを付けた大型トラックが、何時開通するとも分からないまま、待ちぼうけを食らっていた。


史上最も無謀な作戦「インパール作戦」
 この一帯(ナガランド州~マニプール州)は、第2次大戦期の大日本帝国軍の勢力圏の西端にあたり、ビルマから兵力を西に進めてインド独立を目指す勢力と合流して戦局を打開するという「インパール作戦」の舞台になった場所だ(因みにインパールはマニプール州の州都)。

 インパール作戦は、ビルマ戦線を任された軍団長牟田口廉也が行った作戦。
 1944年、完全に米軍に主導権を握られた東南アジア戦線に一石を投じるべく、ビルマから陸路でインドに入り、英国からの独立を目指すインド勢力と同調して窮状打開を図ろうというのが狙いだった。
 このとき問題となったのが物資補給だったが、牟田口軍団長は3週間以内にコヒマ・インパールを陥落させるので、兵站の心配は無用と譲らなかった。軍団長の上には軍司令官がいるのだが、そのポジションには盧溝橋事件の際に牟田口の上司だった河辺がおり、彼の親心・上司心から左程検証もせずに作戦は承認されてしまった。
 当時、陸軍学校では、兵站は軽視される風潮にあり、専門家が軍組織内で主たるポジションにいなかったというのも悲劇の要因となった。

 現場を任された佐藤幸徳(コウトク)第31師団(「烈」)長は、当初よりこの作戦の実効性を疑問視。
 再三上官の牟田口に再考を上申したが甲斐無く、逆に「ジンギスカン作戦(現地で牛を大量調達し、物資輸送に使用。現地到着後にこれらを食料とするというもの。因みに現地の状況を全く調査せずに考えられた)」なる荒唐無稽な作戦を逆提案される有様だった。

 1944年3月、作戦は実行に移された。
 川の水量は想像を遥かに超え、陸路も予想以上に険しかった。
 牛の大半は川に流されあるいは崖から転落、輸送トラックも陸路を通れず分解したパーツを兵士たちが徒歩で運搬する羽目にあった。

 同年3月下旬、佐藤率いる第31師団「烈」は、コヒマ周辺到着。
 4月中旬にはギャリソン・ヒル(後述)を押さえ、コヒマを占領下とするが、その後戦局は急変。
 米国からふんだんな空中補給を受けた新鋭英国軍が大反撃に転じたのだった。

 弾薬・食料が底を付く環境下、牟田口から佐藤へは「4月29日の天皇誕生日までにインパール攻略されたし」との打電が入るのみだった・・・。
 結局、東京で盛大な式典が行われた4月29日、コヒマ周辺では飢餓が発生し始めていた。

 5月末には、ナガランド地域一帯に雨季到来。
 飢餓に加えて、マラリア・赤痢が大量発生、兵士たちは英国軍と戦闘する前からバタバタ倒れていった。
 佐藤は牟田口に対し再三物資補給を上申するも、「敢闘すべし」と断られ続ける。
 (因みに5月16日、東条英機首相兼参謀総長は、昭和天皇に「作戦につき不安なき状況にて既定方針を貫徹する」との上奏がなされている。)

 この間の佐藤師団長-牟田口司令官の遣取りは、当時の環境では考えられなかった。
 佐藤は、事細かに上官に意見している。
 これは当時完全なタブーとされていたが、佐藤は非常に自尊心が高く強情であったということと、大変部下思いであったということが彼をそのような行動に駆り立てたのだろう。
 「現状を知らない者に的確な判断は出来ない。場合によっては独断での撤退も有り得る」などかなり強烈なコメントを牟田口に残している。

 6月1日、佐藤師団長は独断でコヒマ撤退を決める。
 一気にビルマまで撤退した佐藤は、作戦途中で牟田口に解任された。

e0074199_15121221.jpg インパール~ビルマの山道には、無数の日本兵士の餓死者・自殺者が積もるように倒れ、その山道は「白骨街道」と呼ばれた。


 尚、作戦の中止が東条から天皇に上奏されたのは、7月1日だった・・・。


 終戦後、米国が牟田口を尋問した際、牟田口は4月下旬にインパール作戦が失敗だったことに気付いたと認めている。


 佐藤は、自らの手記に、「大本営・総軍・方面軍・軍のバカの4乗がインパールの悲劇を招来した」と辛らつに軍幹部を批判している。
 が、彼に軍の責任を糾弾するチャンスは訪れなかった・・・軍幹部がそれを恐れて軍法会議扱いにしなかったのだ。
 佐藤が閑職を転々とされた一方、総軍・方面軍・軍の幹部は次々に要職に付いていった・・・。



ギャリソン・ヒル(Garrison Hill)
 当時英国軍が駐屯地としていた丘。

M-3 戦車
e0074199_14172168.jpg 日本軍の列師団が撃破した英国戦車。
 今でも柵に囲まれて保存されている。
 案内してくれた人が、「日本軍は勇猛果敢に戦ったと聞いている。それを忘れないために今でもこうして大切に保存している」と言っていた。
 第2次大戦下、複雑な環境におかれたナガランドだが、総じて親日的な感情を持っているようだ。


英国軍兵士墓地
e0074199_14215231.jpg 丘の上、当時テニスコートがあった邸宅が日英激突の地となった。
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 その場所に大きな戦没者碑が建てられ、英国軍英国人兵士や英国軍インド人兵士の墓標が所狭しと並んでいる。
 無縁仏や10代で戦死した者の墓標も珍しくない・・・痛ましい限りだ。
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e0074199_14262054.jpg この墓地全体が、英国連邦府の機関によって維持・運営されているので、全て英国軍兵士の鎮魂のためのもの。
 日本軍を感じる要素は殆ど無いが、この小さな苗木が唯一日本軍の痕跡を示すもの。
 当時ここには、大きな桜の木が植わっており、その上から烈師団の兵士が英国軍兵士たちを狙撃したという。


ナガランド民俗村(Nagaland Heritage Village)
e0074199_1442058.jpg ハリウッドのパクリのような看板が目印。
 文字がいくつか取れちゃっているのは、御愛嬌。
e0074199_1442483.jpg 入口付近には、竹を使って建てられた公民館がある。
 ナガランドでは大量にとれる竹を建材としてPRしている。
あとは、ナガランドに住む16の部族の家のレプリカが並んでいる。
 最後の写真は、鳥の彫り物をした木管楽器。
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e0074199_1551692.jpg 酋長の家には、人間の首を貯め置く場所もある。


 行ったときにはなんか寂れた雰囲気を感じたが、毎年12月にはホーンビル祭り(Hornbill Festival)が開催され、全部族が民族衣裳をまとい、舞踊を披露する。
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e0074199_15145381.jpg ちなみにホーンビルというのは、ナガランド州のジャングル遅滞に棲息するくちばしがとても大きい鳥のこと。
 デリーナガランド・ハウスにも大きなレプリカが置いてあったな。


ディモリ・コブ
e0074199_1429446.jpg ちょっとしたリゾート施設で、ちょっとした集会場に、ちょっとした会食場所がある。

教会
e0074199_14323672.jpg ナガランドの人々は、その殆どがキリスト教徒(ナガランドの歴史についてはディマプール旅行記でふれた)。
 街にある宗教施設は教会のみ(本当はヒンドゥー寺院もあるのかも知れないが、旅行中1回も見なかった)。


ナガランドの食事
 ナガランドの食事は、米食中心。
 唐辛子は使うが、そのほかの香辛料は使用しない(要はカレーではない)。
 日本人の舌に馴染み易いものばかりだ。
 ヒンドゥー教徒ではないので、牛も食べる。
 写真はビーフジャーキー。
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 また、米から酒を造って飲む習慣がある。
 出されたのは、味の薄い濁り酒と米で造ったワイン。
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コーディネーター
 今回、旅をコーディネートしてくれたのは、ナガランド・ハウスに勤務する私の友人の弟とその御友達たち。
 車での案内や夕食、ホテル手配など、何から何まで世話になった。
 ・・・しかし、日本人ぽいなぁ。
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オススメ度(100%個人主観)

    ★★★★★ ・・・ インドの東端で日本を感じる

所要観光時間

    2~3時間 ・・・ 史跡は少ない、長期滞在型か!?
by bharat | 2007-05-20 10:30 | インドぶらり旅