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第96回旅行 ドラクエの世界 レー
 ここからは4回は、初のジャンムー・カシミール州。
 今回は、ラダック地方の空の玄関口であるレー(Leh)。

小チベット ラダック
 レーがあるのは、インド最北端の州ジャンムー・カシミール(Jammu & Kashmir)。
 南西部のジャンムー地方、北西部のカシミール地方と、東部のラダック(Ladakh)地方から構成されている。
 西部の殆どをパキスタンと、北部・東部の殆どを中国チベット自治区と接している。
 またインド独立期、ときの藩王がヒンドゥー教徒、住民の殆どがイスラム教徒だったという複雑な宗教分布により、20世紀の後半は紛争によって非常に不幸な運命を辿った地域だ。

 映画のロケ地あるいは観光地としてのイメージは一気に崩れ、長らく寂れていたが、1974年以降旅行者の入域が殆どの場所で許可されたからは、再び観光業が復興してきた。

 特に、州東部のラダック地方は、チベットに類似した仏教文化を色濃く残しており、雪の降らない夏季になると道路・空路が開放され、一気に観光客が雪崩れ込んでくる。
 空港は、ラダック地方のレーというところで、デリー⇔レー便はRs.20,000-(概算、往復)という高さながら、早めに予約しないと取れないプレミアチケットになっている。

 今回、4日間の日程でラダック地方を周遊した。


高山病に御注意!
 デリーから僅か1時間半のフライトだが、まず地域が地域だけにセキュリティが厳しい。
 荷物をチェックインしてから、搭乗前に自分の荷物の目視確認を求められるのだ。
 手荷物チェック・身体チェックもとても厳重。

e0074199_20421567.jpg 離陸して程なく、飛行機の窓越しに、雪山が見えてくる。
 レーは、5,000~6,000m級の山々に囲まれた高地のような場所にある。
 低いように思えるが標高は3,500m、実に富士山9合目の高さと同じ標高である。

 3,500mというのは、人生史上最高高度だったのだが、別に即座に酸素の薄さを感じる訳ではない。
 但し、ツアーコンダクターからは、初日はゆっくり休息するようにと言われ、到着後すぐにホテルの部屋で仮眠を取った・・・なんでもこの休息がとても大事らしいのだ。


レー市街
e0074199_20515483.jpg レーの市街地はそんなに大きくないが、丁度良い大きさでとても落着く。
 ふと見上げると、19世紀までラダック王族が居住していたレー王宮が見える。
 今は、住居としては機能していない。
e0074199_2055599.jpg 突当りにモスク(ジャマ・マスジッド)がある商店街には、チベット料理屋や骨董品屋が並ぶ。
 ここで買った品々は、後日「いやげもの」コーナーで。
e0074199_14361181.jpg 店名は忘れてしまったが(ヒマラヤ・カフェ・・・だったかな)、ここで食べたチベット料理が美味かった。
 すいとんの入ったラーメンのような食べ物。
e0074199_14381142.jpg 道端の焼肉屋さん。
e0074199_14382211.jpg 塩・胡椒で味付けしたラム肉をタマネギと一緒に薄いパンにくるんで食べる。
 美味。


e0074199_14432557.jpg デリー在住の皆さん、これを見よ!
 なんと、GOLDEN DRAGONがレーにも進出していたのだ。
 字体が一緒だから、多分同じ系列と思われる。



仏教関連の観光スポット
 ラダック地方の住民の殆どは、チベット系仏教を信仰している。
 従い、彼らの心の拠り所となる仏教施設も多い。

スピトゥク・ゴンパ(Spituk Gompa)
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e0074199_14572199.jpg このゴンパ(僧院)は、11世紀にその原型が建造され、15世紀に増築され、今の規模になった。
 イスラム勢力から身を守るため、要塞色の強い造りになっている(非暴力を謳う仏教なのに)。
 本尊や脇の御堂には、数々の仏像が安置されている。
e0074199_1521234.jpg 興味深いのは、丘の裏手にある小さな社。
 ここに、死神像が無数に安置されていて、年に1度の祭りのとき以外は顔に布巾を被せているのだ。
 チベット仏教においては、死神は文字通り死を司る神聖なものとして、頻繁に登場する。


シャンティ・ストゥーパ(Shanti Stupa)
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e0074199_1521030.jpg 1983年に日本妙法寺によって建立された寺院および仏塔(ストゥーパ)。
 妙法寺についての詳しい説明は、ラージギル旅行記参照。
e0074199_15283037.jpg 真っ白のストゥーパの周囲には、降誕→降魔→転法輪→涅槃の4つの壁画が彫られており、仏陀の生涯のダイジェストが描かれている。
e0074199_15252016.jpge0074199_15253869.jpge0074199_15245031.jpge0074199_1525429.jpg



ナゾの祈祷師
e0074199_15355023.jpg レー郊外にある、サブー村(Saboo Village)。
 ここに著名な祈祷師(Oracle)がいるというので、訪問した。
e0074199_15383119.jpge0074199_15384454.jpg 一家団欒スタイルで生活しているらしく、かわいい女の子が我々一行を出迎えた。
 自宅らしき建物の奥には、本尊があり、祈祷師が毎日の御祈りを行っているところだった。


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 別室でいよいよ祈祷を見せてもらうことに。
 なにやらまがまがしい衣裳に身を包んだ祈祷師(御年90歳弱)が、入ってきて祈祷を開始した。
 途中から地元のTVクルーも入ってきて、なにやら本当に有名な祈祷師らしい。
 10分くらい読経を行うと、皆の悩みを聞いて進ぜようと言う。
 我々一行から次々に質問を投げかける。

 我々① 「私は35歳既婚ですがまだ子供がいません。いつ授かるのでしょうか?」

 祈祷師 「今よりももっと深くお祈りを行いなさい。そうすれば授かるでしょう。」


 我々② 「私と子供の家族とは御互い海外におり離れ離れです。一緒になれますか?」

 祈祷師 「今よりももっと深くお祈りを行いなさい。そうすればなれるでしょう。」


 我々③ 「私は再婚出来るでしょうか?」

 祈祷師 「今よりももっと深くお祈りを行い、覚悟を決めなさい。そうすれば出来るでしょう。」



 ・・・これは・・・祈祷なのだろうか・・・??
 周囲の欧米人たちは、一様に眩しい表情で有難そうに祈祷師の言動に釘付けなのだが、私はあまり信心深く無い性分なので、「胡散臭い・・・」という表情でその場に居た。

 ・・・と、その表情を見透かされたのか、私にも何か悩みを打明けろと言ってきた。
 「ここのところ万事順調で、悩みなんか無い」と言うと、凄い質問が逆に飛んできた。

 祈祷師 「おまえは仏教徒だろう?」

 私 「・・・はい。」

 すると、祈祷師は、そうだろうそうだろうと言わんばかりに納得した表情を浮かべた。
 この風貌を見ればだいたい想像がつくと思うのだが・・・。

 胡散臭い・・・ぢゃなかった、奥が深いなチベット仏教は。

 訪問後に知ったのだが、この一帯も近代化・物質社会化が急速に進み、寺院と檀家との関係が昔ほど緊密ではなくなっているのだという。
 昔は、檀家は末っ子などを寺に入れ、祭事のたびに供物も進呈し、寺院がコミュニティに根付いていたのだが、今は各家庭では出稼ぎに出る人が多く、寺には入らないそうだ。




リアル「ドラクエ」
 サブー村から見えた景色がコレ。
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e0074199_15552249.jpg 平原、低い山、高い山、街、川がポツンポツンと点在するこの独特の風景。
 まさに、ドラクエの世界である。

 しかし、人間の文明社会を全否定しているようなこの景色。
 なかなか言葉では形容できない。



写真撮影時は注意が必要
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 この一帯は、インド空軍の基地が置かれている。
 写真撮影時には、注意が必要だ。



オススメ度(100%個人主観)

    ★★★★★

所要観光時間

    3~4時間 (市内だけなら結構すぐ観れる)
by bharat | 2007-06-06 10:30 | インドぶらり旅
第95回旅行は、ポートブレア(アンダマン&ニコバル諸島)
 インドの中で、一番辺鄙なところにある場所といえば、間違い無くココだろう。
 大陸から遥か東に離れたアンダマン・ニコバル諸島が今回の旅行先だ。

インド屈指のリゾート地?
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 地図で見れば分かる通り、インドの連邦直轄地なのだが、インドの東よいうよりミャンマーの南と言った方がしっくりくるくらい、東にはずれたところに位置している。

 この地域の歴史については、コチラに詳しく書いたので参照して欲しい。

 
 この諸島で玄関口となっているのが、アンダマン諸島にあるポートブレア(Port Blair)。
 1789年、英国の東インド会社のボンベイ海軍大佐アーキバルド・ブレア(Archibald Blair)がここを占領し、船舶の停泊場として使い始めたのが地名の由来だ。その後、一旦ここは荒天・疫病などの理由で1796年に放棄される。

 現在、ポートブレアへはコルカタチェンナイからフライトが発着している(デリーからも経由便が出ている)。

e0074199_17342182.jpg 今回は、3人の友達との旅行で、皆チェンナイからポートブレアに向かった。
 欠航・遅延が続発するとウワサのAir Deccan便だったが、ほぼ定刻にチェンナイを出発。
 Air Deccanは大都市間は激安価格なのだが、この区間は片道5,000ルピー(15,000円)もした。
 にも関わらず、機内はほぼ満員御礼。
 インド人にとって、身近なビーチリゾート地なのだろうか。
e0074199_17345041.jpg 70ルピー(210円)でサンドイッチコンボを購入(Air Deccanでは機内食は希望者が別途購入する仕組)。
e0074199_17361155.jpg コーヒーは自分で粉を混ぜるタイプ。
 これが・・・
e0074199_1736561.jpg 混ぜると、こうなる。
 めちゃ甘い。


 ポートブレアに近づくにつれ、大きな島がたくさん見えてくる。
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哀の流刑地
 今でこそ、リゾート地としてPRされているアンダマン諸島(ニコバル諸島は軍事施設)だが、その歴史は悲惨そのもの。
 先住民は、年々減少の一途を辿り、絶滅寸前の民族までいる。
 英国植民地時代には、インド独立を叫ぶインド人たちを片っ端から政治犯として捕まえ、大陸からこの地の刑務所にぶち込んだ。
 アンダマン観光は、そんな歴史の跡を確認する作業ともいえる。

独房監獄跡(Cellular Jail)
e0074199_197741.jpg 1858年に建てられた監獄の跡。
 セポイの反乱に始まる第1次インド独立戦争の後、英国政府は一旦は放棄したポートブレアに監獄を造営、インド独立を目論む反乱分子をここに送り込むようになった。
 第2次世界大戦期(インドでいう第2次インド独立戦争)の最中には、更に大量のインド独立戦士たちが収容されてきた。
 監視塔を中心に、放射状に独房の棟がのびる建物構造。
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e0074199_20302124.jpge0074199_2030328.jpg 中の独房や廊下は、今でこそキレイに白いペンキで塗られているが、独房内にはトイレはおろか排水溝も見当たらず、当時は糞尿まみれの不潔な状態だったという。
e0074199_20563713.jpg 独房棟の一番奥には、特別に写真の掛かった独房があり、そこがヴィール・サヴァルカール(Veer Savarkar)が収容されていた独房だと分かる。
 彼は、インドでは最も有名な活動家の1人で、『1857年 インド独立戦争(The Indian War of Independence 1857)』を発表・出版し、これがもとで1911年4月にこの監獄に入れられた。
e0074199_20391483.jpg 監視塔の部分は、博物館になっており、当時ここに収容された政治犯や、その他インド独立のために戦った活動家(インドでは彼らをFreedom Fighterと総評している)の写真や活動を展示している。
e0074199_20394230.jpg 中村屋にカレーを伝えた、ビハリ・ボースの絵もある。
 ここに収容されたという訳では無いみたいだ。



 一際目を惹いたのが、この写真。
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 カタカナと漢字で、「アンダマン刑務所」の看板。
 ここは1942~45年、大日本帝国軍の支配下になっていたのだ。
正確に言うと、スバス・チャンドラ・ボースが大日本帝国軍庇護下でシンガポールに建てた自由インド政府の支配下に置かれたのだ。
 ナガランド州のコヒマ同様、こんなところにもインドと日本との接点が。

e0074199_20484154.jpge0074199_20485626.jpg 大日本帝国軍と自由インド政府軍の集合写真や、自由インド政府のシンガポール本部の写真も展示してある。



 館内には当時の拷問の様子も展示。
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e0074199_2193273.jpg これは絞首台。
 下の白丸部分がパカっと開くつくり。
e0074199_21102718.jpg ただの偶然だが、このような残酷な目に遭っているカバ(のゴミ箱)を発見。



 ここでは、夕方の6時半から、音とライトのショーが開催されている。
 この手の催しは、デリーではプラーナーキラーで、他にもカジュラホグワリオールで観られる。
 ベースはヒンディー語で行われるが、英語でやってくれることもある。
 事前に確認すべし。
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ヴァイパー島(Viper Island)
e0074199_21595549.jpg ポートブレアからフェリーで45分・・・ヴァイパー島は主に政治犯の絞首処刑を行っていたところだ。
 島には牢獄の跡もある。
 2004年12月26日に発生したスマトラの大津波によって、ボロボロになったマングローブが痛々しい。
 軍用艦を修理する水上ドックも・・・この一帯が軍事上の要衝であることを再実感。
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人類学博物館(Anthropological Museum)
e0074199_2141183.jpg 市内にある博物館。
 ネグロイド系・モンゴロイド系の民族一覧、先住民の移動経路(インドネシアから流れてきたことを示している)、住居などを展示。
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日本軍戦没者碑
e0074199_2283768.jpg ガンディー・パークという庭園の中にある、大日本帝国軍戦没者の社。
 1997年に海軍慰霊団が来て造ったらしいが・・・恐らくこの南方戦線で生き残った方々が有志で組成した団体なのだろう。
 思わず、手を合わせてしばし黙祷した。
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e0074199_22124470.jpg 因みに、慰霊団の名前を記した名簿がタテヨコ間違って社に掲示されていたので、現地の人に直す様依頼・・・果たして後日ちゃんと直してくれたのだろうか・・・?



 このガンディー・パーク、地元民憩いの場として作られたらしい。
 地元民は殆どいないのだが、ナゾの遊具がそこら中に設置されている。
 写真は、シュールなデザインのイス。
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その他の見どころ
 島の悲しい痕跡だけでなく、ちゃんと観光地らしい見どころもある。

チャタム製材場(Chatham Sawmill)
e0074199_1627639.jpg 1836年に英国によって建てられたこの製材場は、アジア最大の規模を誇る。


コービン入り江(Corbyn's Cove)
e0074199_16345196.jpg ビーチリゾート地はアンダマン諸島の北の島々に広がっているが、ポートブレア付近にもちょっとした砂浜がある。
 入り江なので、全長は100~200mくらいしか無いのだが、砂浜の砂は細かくて色も明るい。 ここから見える景色も良い・・・のだが・・・
e0074199_18224170.jpg ふと脇に目を遣ると、2人のインド人がゴミ拾いをしている。
 着ているものもボロボロで、低所得労働者なのは明らかだ。
 観光で来る金持ちのインド人たちが容赦無く捨てるゴミを、こうして拾っている構図は、インド本土と何ら変わらない。
e0074199_1825463.jpg 砂浜のすぐ近くには、ゴミ焼却場があり、煙がもうもうと上がっていた。
 なにやら、環境破壊の現場を目の当たりにしている気がした。



e0074199_18264038.jpg 砂浜がちょうど途切れた辺りには、第2次大戦下に日本軍が作った塹壕が残っている。
 このタイプの塹壕は、海岸線沿いにいくつか残っている。



インドはここをどうしたいのか??
 今回、ここを訪れて思ったこと。
 それは・・・

   「インドはこのアンダマン諸島をどうしていきたいのか??」

という疑問だ。


 リゾート地を謳っているが、ホテル・レストランなどの受容れ施設は御粗末で、スタッフのレベルも超インドレベル・・・ホスピタリティの欠片も感じない。
 津波で受けた被害の復旧も遅々として進んでいない。
 フェリーで海に出れば、軍艦の写真を撮るなと船員が乗客を注意する。
 1点フォローするとすれば、現地の旅行代理店のサービスがとても良かったという点。

 環境対策も酷いもので、「ゴミを捨てるな」の看板もロクに無ければ、ゴミ箱も殆ど設置されていない。
 観光客は、海や道路に平気でゴミを捨て、波打ち際や道路脇にはゴミが積もっている。

 行きの飛行機から眼下に広がっていた島こそ綺麗に映ったが、いざ上陸すると汚い部分しか目に入らなかった。

 やりようによっては、モルディヴのような発展の仕方もあるのだろうが、今のままではまず間違い無く近い将来、環境破壊でリゾート地としてのステータスは無くなるだろう。


 いろいろ考えさせられる場所だった・・・。



オススメ度(100%個人主観)

     ★☆☆☆☆ ・・・ リゾートとして来たら相当ガッカリする

所要観光時間

     5時間 (観光地は少ない)
by bharat | 2007-05-27 10:30 | インドぶらり旅
第94回旅行は、大日本帝国軍激戦の地コヒマ
 インド東部ナガランド州の玄関口であるディマプールから、東に約80km。
 州都のコヒマに到着する。
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悪路に次ぐ悪路
e0074199_17194536.jpg ディマプールから僅か80kmしか離れていないのだが、兎に角道の状態が悪い。
e0074199_17191879.jpg 標高差約2,000mを一気に上る山道の殆どは未舗装で、軟らかい土壌と多雨が災いして至るところに地すべり・土砂崩れの跡が見られる。
e0074199_21594655.jpg にも関わらず、この国道がアッサム州~ナガランド州~マニプール州を繋ぐ一番マシな物流ルートになので、大型車が多い。
 これらが行き違うたびに渋滞が発生する。
e0074199_17222064.jpg 本格的な雨季はまだだが、それでも一部区間では土砂崩れによる通行止めが発生。
e0074199_1723023.jpg マニプール州のナンバープレートを付けた大型トラックが、何時開通するとも分からないまま、待ちぼうけを食らっていた。


史上最も無謀な作戦「インパール作戦」
 この一帯(ナガランド州~マニプール州)は、第2次大戦期の大日本帝国軍の勢力圏の西端にあたり、ビルマから兵力を西に進めてインド独立を目指す勢力と合流して戦局を打開するという「インパール作戦」の舞台になった場所だ(因みにインパールはマニプール州の州都)。

 インパール作戦は、ビルマ戦線を任された軍団長牟田口廉也が行った作戦。
 1944年、完全に米軍に主導権を握られた東南アジア戦線に一石を投じるべく、ビルマから陸路でインドに入り、英国からの独立を目指すインド勢力と同調して窮状打開を図ろうというのが狙いだった。
 このとき問題となったのが物資補給だったが、牟田口軍団長は3週間以内にコヒマ・インパールを陥落させるので、兵站の心配は無用と譲らなかった。軍団長の上には軍司令官がいるのだが、そのポジションには盧溝橋事件の際に牟田口の上司だった河辺がおり、彼の親心・上司心から左程検証もせずに作戦は承認されてしまった。
 当時、陸軍学校では、兵站は軽視される風潮にあり、専門家が軍組織内で主たるポジションにいなかったというのも悲劇の要因となった。

 現場を任された佐藤幸徳(コウトク)第31師団(「烈」)長は、当初よりこの作戦の実効性を疑問視。
 再三上官の牟田口に再考を上申したが甲斐無く、逆に「ジンギスカン作戦(現地で牛を大量調達し、物資輸送に使用。現地到着後にこれらを食料とするというもの。因みに現地の状況を全く調査せずに考えられた)」なる荒唐無稽な作戦を逆提案される有様だった。

 1944年3月、作戦は実行に移された。
 川の水量は想像を遥かに超え、陸路も予想以上に険しかった。
 牛の大半は川に流されあるいは崖から転落、輸送トラックも陸路を通れず分解したパーツを兵士たちが徒歩で運搬する羽目にあった。

 同年3月下旬、佐藤率いる第31師団「烈」は、コヒマ周辺到着。
 4月中旬にはギャリソン・ヒル(後述)を押さえ、コヒマを占領下とするが、その後戦局は急変。
 米国からふんだんな空中補給を受けた新鋭英国軍が大反撃に転じたのだった。

 弾薬・食料が底を付く環境下、牟田口から佐藤へは「4月29日の天皇誕生日までにインパール攻略されたし」との打電が入るのみだった・・・。
 結局、東京で盛大な式典が行われた4月29日、コヒマ周辺では飢餓が発生し始めていた。

 5月末には、ナガランド地域一帯に雨季到来。
 飢餓に加えて、マラリア・赤痢が大量発生、兵士たちは英国軍と戦闘する前からバタバタ倒れていった。
 佐藤は牟田口に対し再三物資補給を上申するも、「敢闘すべし」と断られ続ける。
 (因みに5月16日、東条英機首相兼参謀総長は、昭和天皇に「作戦につき不安なき状況にて既定方針を貫徹する」との上奏がなされている。)

 この間の佐藤師団長-牟田口司令官の遣取りは、当時の環境では考えられなかった。
 佐藤は、事細かに上官に意見している。
 これは当時完全なタブーとされていたが、佐藤は非常に自尊心が高く強情であったということと、大変部下思いであったということが彼をそのような行動に駆り立てたのだろう。
 「現状を知らない者に的確な判断は出来ない。場合によっては独断での撤退も有り得る」などかなり強烈なコメントを牟田口に残している。

 6月1日、佐藤師団長は独断でコヒマ撤退を決める。
 一気にビルマまで撤退した佐藤は、作戦途中で牟田口に解任された。

e0074199_15121221.jpg インパール~ビルマの山道には、無数の日本兵士の餓死者・自殺者が積もるように倒れ、その山道は「白骨街道」と呼ばれた。


 尚、作戦の中止が東条から天皇に上奏されたのは、7月1日だった・・・。


 終戦後、米国が牟田口を尋問した際、牟田口は4月下旬にインパール作戦が失敗だったことに気付いたと認めている。


 佐藤は、自らの手記に、「大本営・総軍・方面軍・軍のバカの4乗がインパールの悲劇を招来した」と辛らつに軍幹部を批判している。
 が、彼に軍の責任を糾弾するチャンスは訪れなかった・・・軍幹部がそれを恐れて軍法会議扱いにしなかったのだ。
 佐藤が閑職を転々とされた一方、総軍・方面軍・軍の幹部は次々に要職に付いていった・・・。



ギャリソン・ヒル(Garrison Hill)
 当時英国軍が駐屯地としていた丘。

M-3 戦車
e0074199_14172168.jpg 日本軍の列師団が撃破した英国戦車。
 今でも柵に囲まれて保存されている。
 案内してくれた人が、「日本軍は勇猛果敢に戦ったと聞いている。それを忘れないために今でもこうして大切に保存している」と言っていた。
 第2次大戦下、複雑な環境におかれたナガランドだが、総じて親日的な感情を持っているようだ。


英国軍兵士墓地
e0074199_14215231.jpg 丘の上、当時テニスコートがあった邸宅が日英激突の地となった。
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 その場所に大きな戦没者碑が建てられ、英国軍英国人兵士や英国軍インド人兵士の墓標が所狭しと並んでいる。
 無縁仏や10代で戦死した者の墓標も珍しくない・・・痛ましい限りだ。
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e0074199_14262054.jpg この墓地全体が、英国連邦府の機関によって維持・運営されているので、全て英国軍兵士の鎮魂のためのもの。
 日本軍を感じる要素は殆ど無いが、この小さな苗木が唯一日本軍の痕跡を示すもの。
 当時ここには、大きな桜の木が植わっており、その上から烈師団の兵士が英国軍兵士たちを狙撃したという。


ナガランド民俗村(Nagaland Heritage Village)
e0074199_1442058.jpg ハリウッドのパクリのような看板が目印。
 文字がいくつか取れちゃっているのは、御愛嬌。
e0074199_1442483.jpg 入口付近には、竹を使って建てられた公民館がある。
 ナガランドでは大量にとれる竹を建材としてPRしている。
あとは、ナガランドに住む16の部族の家のレプリカが並んでいる。
 最後の写真は、鳥の彫り物をした木管楽器。
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e0074199_152518.jpge0074199_153511.jpge0074199_1531794.jpg
e0074199_1551692.jpg 酋長の家には、人間の首を貯め置く場所もある。


 行ったときにはなんか寂れた雰囲気を感じたが、毎年12月にはホーンビル祭り(Hornbill Festival)が開催され、全部族が民族衣裳をまとい、舞踊を披露する。
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e0074199_15145381.jpg ちなみにホーンビルというのは、ナガランド州のジャングル遅滞に棲息するくちばしがとても大きい鳥のこと。
 デリーナガランド・ハウスにも大きなレプリカが置いてあったな。


ディモリ・コブ
e0074199_1429446.jpg ちょっとしたリゾート施設で、ちょっとした集会場に、ちょっとした会食場所がある。

教会
e0074199_14323672.jpg ナガランドの人々は、その殆どがキリスト教徒(ナガランドの歴史についてはディマプール旅行記でふれた)。
 街にある宗教施設は教会のみ(本当はヒンドゥー寺院もあるのかも知れないが、旅行中1回も見なかった)。


ナガランドの食事
 ナガランドの食事は、米食中心。
 唐辛子は使うが、そのほかの香辛料は使用しない(要はカレーではない)。
 日本人の舌に馴染み易いものばかりだ。
 ヒンドゥー教徒ではないので、牛も食べる。
 写真はビーフジャーキー。
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 また、米から酒を造って飲む習慣がある。
 出されたのは、味の薄い濁り酒と米で造ったワイン。
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コーディネーター
 今回、旅をコーディネートしてくれたのは、ナガランド・ハウスに勤務する私の友人の弟とその御友達たち。
 車での案内や夕食、ホテル手配など、何から何まで世話になった。
 ・・・しかし、日本人ぽいなぁ。
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オススメ度(100%個人主観)

    ★★★★★ ・・・ インドの東端で日本を感じる

所要観光時間

    2~3時間 ・・・ 史跡は少ない、長期滞在型か!?
by bharat | 2007-05-20 10:30 | インドぶらり旅
第93回旅行は、ナガランド州の商業都市ディマプール
 この2枚の写真。
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 日本のものと間違えそうになるが、実はインドで撮ったもの。
 インドの東の最果て、ナガランドで撮ったものだ。

 デリーで開催された州別博覧会IITFで初めて関心を持ったナガランド州。
 第93回~94回は、ナガランド旅行記(第94回はコチラ)。


ナガランド州の歴史
 この州は、インドの東端に位置し、ミャンマーと国境を接している。
 ここには、現在16の部族が共存しており、インド中央政府ともうまく折合いをつけながら平穏が保たれているが、この平和な状態が訪れたのは、ここ10年くらいのことだ。
 かつてこのあたりの山間部族は首狩族として周辺地域とは明らかに異なる生活習慣をもっていた。戦争によって捉えた捕虜の首をはね、五穀豊穣の生贄として捧げるという、一種の自然崇拝を行っていたのだ。
 その後、英国の占領政策によって、その殆どがキリスト教に改宗させられた。


 第2次世界大戦期に入ると、この一帯は英国軍と日本軍の支配領域のボーダーラインとなる。
 日本軍の「インパール作戦」(当時占領下にあったビルマから西になだれ込み、インドの反英勢力と合流し戦局の打開を図ろうとしたもので、結局は大失敗におわった)により、日本軍はナガランド一帯にも侵攻。当時のナガランドを纏めるピゾ(のちのナガ民族評議会(NNC)議長)は、日本軍の後押しを受けたチャンドラ・ボース自由インド政府軍と協調路線を執った。

 日本軍は敗退したが、ピゾはチャンドラ・ボースから「インドが英国占領から解放された際にはナガランドの自治を認める」との約束をしていた。
 チャンドラ・ボース亡き後のインド独立の中心人物マハートマー・ガンディーに対し、NNCはナガランド独立を持ちかけるが相手にされず、ナガランドは1947年8月14日(インド独立の前日)、ナガランドの独立を一方的に宣した。


 インドのナガランド平定政策が本格化する中、東パキスタン(現在のバングラデシュ)の後押しを受けたナガランドは態度をますます硬化させ、1956年にはナガランドはまたも一方的に連邦政府の樹立・独自の憲法制定を宣言する。
 しかし、当の東パキスタンがインドの助力によってバングラデシュとして独立すると、後ろ盾を失ったNNCは急速に力を失う。各部族間で温度差があったものの、最終的に1975年、インド憲法の受入をして独立を完全に断念した(シロン協定)。


e0074199_18374666.jpg 最後まで独立を諦めない急進派は、ナガランド民族社会主義評議会(NSCN:National Socialist Council of Nagaland)などを組織。
 ミャンマーにいるナガ族の領域までも含んだナガリム(Nagalim)建国を求める過激な思想まで出てきた。
 だが、組織内の抗争によって徐々に勢いを失ったNSCNは、1997年インド政府と停戦協定締結、以降ナガランド州には平穏が戻った。


観光に力を入れているというものの・・・
e0074199_110892.jpg ナガランド州も他の州と同様に、観光客の誘致に力を入れているようだ。
 デリーでも、州別物産街などでナガランドの店舗を見かけることがある。
 また、ナガランド州観光事務所に行けば、観光地図を貰うことも出来る。
e0074199_115511.jpg がしかし、ガイジン観光客がナガランド州に気軽に足を運ぶには、まだまだ多くのハードルがある。
 まず、手続面。
 ガイジンは、ナガランド州に入るには事前に州政府の許可証(入域許可証)を取付ける必要がある。
 手続自体は、左程面倒くさくないのだが、申請から許可証発行まで結構時間がかかる・・・私の場合は1ヶ月くらいかかった・・・書類を受取ったのは旅行出発前日だった。
 次に、物理的なアクセス難。
 ナガランド州には、空港・鉄道駅が1つしかない。
 州の西端に位置するディマプールがそれなのだが、空路は近隣空港(アッサム州グワハティと西ベンガル州コルカタ)から小さなプロペラ飛行機が飛んでいるのみ。
 あとは、舗装率の高くない山間道路しかないのだ。


 ナガランド州が観光客で賑わう日は、まだまだ遠そうだ。


初体験! たった1人のための飛行機
 今回の私のアクセスルート。

 往路:デリー(5:30)→(Indigo便)→(7:50)グワハティ(9:45)→(Alliance Air便)→(10:35)ディマプール

 復路:ディマプール(12:25)→(Alliance Air便)→(14:25)コルカタ(19:10)→(Indigo便)→(21:00)デリー

 Indigoは、数年前に業界に入ってきた新鋭航空会社。
 早朝・夜間ダイヤによる空港使用料金節約、ニッチ路線展開による過当競争回避、ネット予約体制、全席エコノミー、機内食ナシ(サンドイッチ(75ルピー)・缶飲料(25ルピー)等は別途機内で購入可)と徹底した低コスト戦略で、今まで金銭的に飛行機に乗れなかった人たちも客層に取込んでいる。
 Alliance Airは、Indian Airの子会社で、ニッチ路線を受け持っている。元国営会社がコストカット目的で子会社化したということもあり、サービスは国内でも最低レベルだ。


 で、グワハティから乗ったAlliance AirのCD7751便。
 空港でチェックインした際、定刻通り出発する旨聞かされていたのだが、いつになっても掲示板に便名が出てこない。
 ようやく、構内アナウンスで便名を呼ばれ、セキュリティチェック。

 ゲート前で暫らく待っていると、軍人(グワハティ空港は軍港なので、軍人が警備・案内をやっていたりするのだ)がニコニコしながらやってきて、「ディマプールに行くのって、あなた?」と聞いてきた。
 そうですが・・・と答えると、全く予期せぬ答えが。

 「今日の乗客、あなただけだから☆」

 !!! なんと・・・恐るべき赤字路線だったのか。
 
e0074199_12581429.jpg ゲートから、10~20人の軍人が、色々話しかけながら、飛行機まで同道してくれる。
 ・・・はたから見たら、政治犯の移送みたいなんだろうな。

 彼らとても良い人たちで、離陸するときまでずっと手を振って送り出してくれた。
e0074199_12595768.jpg 当然、機内は関係者以外乗ってません。
 ・・・ガラ~ン。
e0074199_1333859.jpg 最前列は、変なシートアレンジ。
 いざ、好きな座席に座って、キャビンアテンダントの緊急時対応のインストラクションを受ける。
 客は私しかいないのだが、絶対にこちらを見ないキャビンアテンダント・・・誰も居ない機内後方を見ていた・・・誰に対して説明してるんでしょうか?
e0074199_1363979.jpg 殆どカラの機体は、発車してからものの数秒で離陸。

 45分のフライトだったが、一応機内食もサーブされる。
e0074199_1381536.jpg 定刻より少し遅れて、旅行客が1人もいないディマプール空港に到着。


見どころ① カチャリ王朝の遺跡
 ディマプールの見どころの1つは、中世にここを統治していたカチャリ族の遺跡。
 ディマプールの都市名も、この民族の言葉「ディ(川)」+「マ(大きな)」+「プール(町)」から来ている。川は、この一帯を流れるダンシリ(Dhansiri)川を指している。
 カチャリ族について、詳しいことはあまり分かっていないが、現在のアッサム州・ナガランド州・マニプール州あたりにいた民族のようだ。
e0074199_13282653.jpg 入口の城壁は後付けだろうか。
 入場料などは特に無く、あっさり入れる。

 中はだだっ広い野原になっており、奥方に遺跡が点在している。
 一部の資料では、男根を模した彫刻物との説明がある。
 タントリズムのような信仰があったのだろうか?
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e0074199_13485886.jpg 遺跡とは全く関係無いが、敷地内の池では、男の子たちが素手で魚を獲っていた。


見どころ② 土曜市場
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 この土曜市場が興味深かった。
 ナガランドの人たちは、その食生活が特徴的なことでも有名で、生きとし生けるもの全てを食の対象としている。
 売られる食材は実にバラエティに富んでおり、野菜など普通の食材のほかに、

e0074199_13532110.jpg カエルに・・・
e0074199_13533931.jpg 芋虫に・・・
e0074199_1354586.jpg 犬・・・。

 朝一番でここに来れば、レパードなどの珍食材なども売りに出ているのだそうだ。
 

オススメ度(100%個人主観)

    ★★★★★ ・・・ インドぢゃないインド(?)を体感出来る場所

所要観光時間

    1~2時間
by bharat | 2007-05-19 10:30 | インドぶらり旅
第92回旅行は、宗教ミックス地帯ハジョ
 アッサム州都グワハティから車で1時間少々(西に約50km)行ったところに、ハジョという小さな集落がある。

全インド的に有名な希少シルク産地
e0074199_14203788.jpg 正確にはハジョではないが、ハジョの近くにあるスアルクチ(Sualkuchi)は黄金色をしたシルク、ムガ・シルク(Muga Silk)を産する場所として有名だ。
 このシルクは、メクラチュドール(Meklachudor)と呼ばれる女性の婚礼衣裳に使われるのだという。


ヒンドゥー教&イスラム教&仏教の聖地
 グワハティからこのハジョに足を伸ばしたのは、ここが3つの宗教の聖地だという興味深い特徴を持っていたから。

 ヒンドゥー教徒にとっては、ここがパーンダヴァ(Pandava)が隠遁生活を送った場所だと信じている。パーンダヴァとは、インドの大叙事詩『マハーバーラタ』に出てくる主役の5人の王子のことで、名前は夫々ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァという。
 彼らは、従兄弟のドゥリヨーダナの策略によって財産・土地を奪われ、12年間に亘る放浪生活を余儀無くされる。その後の失地回復運動が『マハーバーラタ』の中心的主題となっている。

 仏教徒にとっては、ここが仏陀入滅(死ぬこと、ニルヴァーナ)の地だとされている。
 (一般的には、クシナガルというウッタル・プラデシュ州の北東の地で入滅したと言われている。)

 イスラム教徒にとっては、ここはギャースウッディーン・アウリア(Ghiasuddin Aulia)がイスラム教巡礼の地と定めた場所とされている。


ハイグリバ・マーダバ(Hayagriba Madhaba)寺院
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e0074199_15141095.jpg 元々は6世紀にまで遡ることが出来るという古い寺院。
 一度破壊され、1583年にラグデブナラヤン(Raghudebbarayan)王によって再建された姿が現在まで残っている。
 敷地内の溜池には、亀や魚が大量にいて、エサをやると寄って来る。
e0074199_15171721.jpg 壁面の彫刻は、痛みこそあるがなかなか立派なものが残っている。
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 本堂には、ヴィシュヌ神が祀られている。
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 また、この寺院は仏陀も信仰対象になっており、ヒンドゥー教徒のみならず仏教徒も数多く参拝に訪れると言う。


鉄椀?
e0074199_15562865.jpg 上述したパーンダヴァ5人兄弟の次兄ビーマが隠遁生活の際に使用したという、鉄の椀。
 細かい説明も無いが、大切そうに安置されている。



ポア・メッカ
e0074199_15471796.jpg 時間が無くて上まで登れなかったが、1657年に建てられた。
 ムガル帝国第4代シャージャハーン(タージマハルを建てた王様)の子スジャウッディン・マハメッド・シャー(Sujauddin Mahammed Shah)の命によってギャースウッディーン・アウリアがこの地にモスクを造り、以降ここがイスラム教徒たちの心の拠り所となった。
 その後、ここにはギャースウッディーン・アウリアの霊廟が安置された。
e0074199_15514015.jpg ハジョにはおくつかのモスクがあり、今でもイスラム教徒たちが数多く住んでいることが分かる。



隠れた名産品
e0074199_15585498.jpg 集落の中心街で、やたらと目にした真鍮細工の店。
 各寺院・モスクなどで使用する用具を作成する需要から、真鍮細工がこkのあたりの名産品になったみたいだ。




オススメ度(100%個人主観)

     ★★☆☆☆

所要観光時間

     2時間
by bharat | 2007-05-17 10:30 | インドぶらり旅
第91回旅行は、インドサイの地 グワハティ
 今回は、初めてアッサム州に行ってきた。

 インド東部に位置するこの州は、空路ではデリーから意外に近く、2時間少々のフライトで到達出来る。


北東7州を束ねるアッサム州
 インド北東部は、その地域特性・民族特性から、7つ纏めて捉えられることが多い。
 その7つとは、アッサム(Assam)州、アルナーチャル・プラデシュ(Arnachal Pradesh)州、ナガランド(Nagakand)州(同州の旅行記はコチラコチラ)、マニプール(Manipur)州、メガラヤ(Meghalaya)州、トリプラ(Tripura)州、ミゾラム(Mizoram)州。
 各州の様子については、デリーで開催されたIITFでだいたい把握していたが、これら7州の取纏め役的な役割を担っているのがこのアッサム州のようだ。
e0074199_13282860.jpg 北東7州の中でもっとも面積が広く、中央からのアクセスが良く、また根幹産業である紅茶産業と石油産業が充実していることも、7州を牽引する要因と思われる。
 州内にある、カジランガ(Kaziranga)国立公園では、世界的に珍しいアジアサイを見ることが出来ると言う・・・州都Guwahatiも自らをRhino Cityを銘打って、PRに精を出していた。


グワハティについて
 この州の州都はグワハティ(Guwahati)。
 自然の力(Shakti)とタントリズム(人間の欲望を追求し解脱を得るという、ヒンドゥーの一派)を信仰する小さな王朝がここに都を定めたのが始まりだという。

 その後、今のミャンマーから侵攻したアホム(Ahom)王朝がこの一帯を支配下に置くと、我々が良く知るところの一般的なヒンドゥー教が広まった。

e0074199_13151274.jpg このアホム王朝は、同時期にデリーで興ったムガル帝国と度重なる戦闘を繰返し、その戦地跡は今でも公園として残っている。

 19世紀以降アホム王朝は疲弊し、ここは英国政府による支配を受けることとなった。
 英国政府の当初の思惑は、ここ一帯をイスラム勢力下に置き、東パキスタンの領土に組込むことだったが、結局インド領となった。



e0074199_13234133.jpg 現在の人口は約58万人。
 勿論州内で一番の人口である。



ヒンドゥー教の聖地として
 また、グワハティは、ヒンドゥー教の聖地でもある。
 シヴァ神の最初の妻であるシャクティが死んでしまった際、シヴァ神はこれを悲しんでその亡骸を抱いたままインド中を飛び回った。
 その際、亡骸の体はバラバラに飛び散り、インド各地に落ちた。
 その場所が、現在インド各地でヒンドゥー教徒たちによって神聖視されており、このグワハティには、シャクティの女性器が落ちたとされ、特に神聖視されているのだ。

カーマッキヤ(Kamakhya)寺院
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e0074199_13385475.jpg 1665年に建立されたこの寺院には、シャクティが祀られている。
 今現在も沢山の参拝者が訪れる。
 砂岩で出来た寺院の周囲には、ヒンドゥー教の神々の彫刻が残っている。
e0074199_13384053.jpg 上述したように、ここはシャクティの女性器とゆかりがあるということで、彫刻の中にはこのような女性器を模したものも少なくなく、人々が色粉を塗りたくって拝んだ跡があった。
e0074199_1343048.jpg また、この寺院では、毎日ヤギの生贄が捧げられる。
 これは、その儀式のときに使う断頭台。
 今回はその瞬間を見ることは出来なかったが、多分コルカタで見たのと同じような感じだろう。

 

その他の見どころ
 他に行ったのは、こんなところ。

カラクシェトラ(Kalakshetra)
 アッサム州をはじめとするインド北東7州の民族博物館コンプレックス。

e0074199_13573441.jpg 入口付近には、昔の王朝が建てた城門のレプリカ。
e0074199_13584840.jpg 敷地内には、現地の伝統的な家屋のレプリカも。
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 地元のアーティストが作成したと思われる、様々な彫刻も。
 全てヒンドゥー教に関連したモチーフだが、ポップなタッチに仕上がっており、とてもかわいい。
e0074199_1413948.jpg これは、屋外小劇場。
 たまたま演目が無かったのか、暫らく使っていないのか・・・。
e0074199_1424210.jpg これは子供用遊園地。
 遊具より気になったのが・・・
e0074199_1434470.jpg 子供が泣き出しそうな、この壁の絵。
 もっと子供に好感を持たれる絵にすべきだと思うが・・・。


 また、写真禁止だったので撮れなかったが、博物館内の展示物が面白かった。
 伝統民族祭の際に使用する、色々な御面を飾っていたのだが、これが実に見事だった。
 一見の価値あり。



アッサム料理
e0074199_1474647.jpg ここの御当地料理を出す、数少ないレストランがここ「PADRADISE」。
 屋内はとても綺麗で、割高な料金設定も納得の設備だ。
e0074199_1485660.jpg ヒンドゥー様式と御当地の食物を組合せた特徴的な料理が出てきた。
 ターリー(大皿料理)に、アッサムでよく食べられるアヒル肉のカレーが入っている。
 アヒル肉のカレーはインドで初めてだったが、美味かった。




オススメ度(100%個人主観)

     ★★★☆☆ ・・・ 次は、ここを拠点にしてアッサム北東部に行ってみたい

所要観光時間

     3時間
by bharat | 2007-05-16 10:30 | インドぶらり旅
第90回旅行は、南のマハラジャ宮殿パダマナバープラム
 トリヴァンドラムを南進、州境を越えて隣のタミルナドゥ州に入り少しすると、パダマナバープラムに到着。




 ・・・続きはのちほど・・・
by bharat | 2007-05-14 10:30 | インドぶらり旅
第89回旅行は、ケーララ州都トリヴァンドラム
 今回は、ケーララ州の州都であるトリヴァンドラム。


 ・・・続きはのちほど・・・
by bharat | 2007-05-13 10:30 | インドぶらり旅
第88回旅行は、ハウスボートの発着地アレッピー
 ケーララ州での余暇の過ごし方の代名詞ともなっているのが、水郷地帯(バックウォーター)でのハウスボート。
 その発着地となっているのが、このアレッピー(Alleppey)だ。



 ・・・続きはのちほど・・・
by bharat | 2007-05-12 10:30 | インドぶらり旅
第87回旅行は、インド象の一大飼育地グルヴァユール
 トリスールから西の海岸線を目指して約35km、あるいはコチから海岸通りをひたする北上すると、現れるのがグルヴァユールという、小さな集落だ。


 ・・・続きはのちほど・・・
by bharat | 2007-05-11 10:30 | インドぶらり旅