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第13回旅行は、異なる宗教が共存するエローラ石窟群
 アジャンタ(Ajanta)石窟群を見た翌日、エローラ(Ellora)石窟群を見に行った。
 アジャンタとさして変わらぬのであろうと思っていたが、さにあらず。
 個人的には、エローラのほうが気に入ったのであった。

仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の合作

 アウランガバード(Aurangabad)から北西に約25km、巨大な駐車場の向う側にエローラ石窟群が見えてくる。
 ここは、アジャンタの地形とは違い、平地と丘陵との境目に石窟を彫っているので、とても見学路が広い。
 チケット売場があるところが、丁度南北に続く石窟群の真ん中にあたり、巨大なカイラーサナータ(Kailasanatha)寺院を目の当たりにすることが出来る。
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 エローラには、全部で34の石窟があるのだが、まず驚くのが3つの宗教の寺院で構成されている点だ。第1窟~第12窟は仏教、第13~第29窟はヒンドゥー教、第30~第34窟がジャイナ教の寺院になっており、よくまぁ仲良く建てたものだと感心してしまう。
 仏教寺院は紀元後600~800年に、ヒンドゥー教寺院は紀元後600~900年に、ジャイナ教寺院は紀元後800~1000年に建てられたとされており、カラチュリ朝、チャールキヤ朝、ラーシュトラクータ朝とエローラ地域を統べる王朝が各宗教寺院の建設を推し進めた。特に、ラーシュトラクータ朝は、一時的にここエローラに都を構えており、エローラの地名も当時の名エーラプラが訛ったものだ。同王朝のクリシュナ1世のときに寺院建設は最盛期を迎え、前述の巨大寺院カーラーサナータが彫られた。


鬱陶しい土産物屋を一蹴!

 駐車場にマイクロバスが着くと、みるみるうちに人だかりが・・・
e0074199_0265720.jpg 周囲を土産物屋に包囲されてしまった。
 が、我々を引率する先生が、

   「この人たちは、私の大事な
    御客さんたちなのよぉおお!
    インド人の恥を晒さないで
    ちょおおおだいいいい!!!」

と絶叫したので、みんな逃げるようにどこかに行ってしまった・・・。


第16窟 カイラーサナータ寺院

e0074199_0401960.jpge0074199_039377.jpg 石窟群中、最大の寺院。紀元後8世紀頃に彫られたヒンドゥー寺院だが、あたかも地上に建設したように見える。幅45m、奥行85m、高さ30mのこの寺院は、巨大な岩石を掘って出来たものだ。なんでも、シヴァ神の住む山カイラーサを再現するために、この手法を採ったとのことで、人力で彫ったとは思えない膨大な作業の賜物だ。彫った岩の量は20万tにもなると推測されている。

e0074199_052828.jpge0074199_0514555.jpg 入口入って正面に大きな像、次いで左に進むと、柱の奥に3人の女神像の彫刻が見える。ガンジス、ヤムナー、サラスヴァティの3つの聖なる川を擬人化したものらしい。

 地面には、水路が。文明レベルの高さを物語る。e0074199_131521.jpg







 中央の建物部分に進めべく、周囲の回廊を回っていくと、外側の壁面に聖典「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」に登場するシーンを再現した彫刻が続く。e0074199_0555423.jpg







e0074199_10519.jpge0074199_0582098.jpg 中央部の建物上部はこのような造り。壁面には、シヴァ神の頭から水が垂れてガンジス川が出来たと言う寓話が彫られている。

 本堂のような場所には、例によってリンガ(男根)が。e0074199_1153.jpg







 後付けで作られたと言う離れのような場所には、女神中心の礼拝所のようなものが。e0074199_155791.jpg
 







第10窟 ヴィシュワカルマ

 Viswakarmaは、建築の守護神の意味。e0074199_128034.jpge0074199_1273845.jpg
 仏教寺院の塔院(チャイティヤ)タイプで、天井にはアーチ上の骨組みを見ることが出来る。
 最奥部には、ブッダの坐像を彫った仏塔(ストゥーパ)があり、この脇から御経を唱えると建物内部全体に反響する構造になっている。



第32窟

e0074199_1353413.jpge0074199_135178.jpg 2階建てのジャイナ教寺院で、外部の彫刻は綺麗に残っており、また内部の彫刻・壁画も保存状態が良い。彫刻は大変細微。内部人物彫刻は、ジャイナ教らしく皆裸像だ(ジャイナ教では何も身にまとわないことが戒律としてある)。


第29窟

e0074199_1363062.jpge0074199_136635.jpg シヴァ神の彫刻が最もダイナミックかつ自由奔放とされるヒンドゥー寺院。
 片方の壁に悪魔退治をする鬼の形相のシヴァ神がいるかと思えば、反対側には奥さんのパールヴァティ(彼女もまた神だが)と乳繰り合っている壁画もある・・・(本当は、地震に怯えるパールヴァティを諭しているらしいのだが)。



世界遺産は、現地の人の憩いの場所

e0074199_14433.jpge0074199_1444218.jpg 周囲が平原で緑も多く、エローラは現地の人にとっては憩いの場になっているようだった。
 我々が持参した弁当を食べた場所も、ちょっとした木陰で、周りには現地の人と思われる家族が数組いた。
 ごく自然に周りの環境とマッチしていて、かと言ってゴミでちらかっている訳でも無く、とても居て気持ちの良い場所だった。


オススメ度(100%個人主観)

    ★★★★☆
by bharat | 2005-09-30 21:57 | インドぶらり旅
第12回旅行は、仏教寺院が並ぶアジャンタ石窟群
 アウランガバード(Aurangabad)から車で移動すること1~2時間、アジャンタ(Ajanta)に到着。

様々な環境がアジャンタを生んだ

 川がUの字状に曲がった場所の崖に整然と並ぶ、29の石窟。e0074199_9553411.jpg 紀元前2世紀頃から紀元後600頃にかけて彫られたこの世界遺産に指定された仏教石窟は、いろいろな要素が絡んで生まれた。
 まず、この辺りの地域が玄武岩で出来ており、彫るに易く、風化しにくかったこと。
 次に、時の王が仏教の保護に非常に力を入れており、仏教建設物の建築に寛容だったこと。
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 また、強力なパトロンもいた。当時、ローマなどとの貿易が活発化しており、これらに携わる商人たちの多くは仏教(小乗仏教)を信仰していた。彼らは、自らの支出で石窟を掘らせ、その石窟を寄進したという。

 最後に、19世紀になるまで、人目に晒されなかったこと。ここは、森に囲まれていて、周囲に大きな都市も無いので、1819年に狩猟に出たイギリス人が偶然発見するまで、全くその存在を確認されていなかったそうだ。
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 我々も、そのイギリス人が石窟を発見した場所(Viewpoint)から川に向かって下っていき、周りの景色を楽しみながら、石窟にアプローチしていった(徒歩約1.5時間)。


ブッダ ブッダ ブッダ ・・・

e0074199_103837.jpg 東端から順に1、2、3と石窟に番号が付されており(一部順番通りぢゃないものもあるが)、第1窟の東側に昔の切符売場がある。現在の売場は、そこから崖を数百m下った場所に移されている。

 全部で29窟あるのだが、見所のある石窟をダイジェストで紹介する。



第1窟

 紀元後500年頃の建設と言われる。e0074199_10574949.jpge0074199_10572577.jpg 全ての石窟は、僧院(ヴィハーラ)と塔院(チャイティヤ)とに大別され、前者は僧や礼拝者の休息所などに使用され、後者は礼拝所・儀式用の会場として機能したと言われている。
 この第1窟は僧院で、中央のリビングルームのような空間を周囲の寝室が囲む設計。最奥部にはブッダ坐像が安置されている。


第2窟

e0074199_1152996.jpge0074199_1155015.jpg 第1窟と同時期のもの。
 僧院タイプ。ブッダ誕生に関する話が壁面に描かれている。





第4窟

e0074199_1114067.jpge0074199_11143047.jpg 僧院タイプで、石窟群最大の大きさ。最奥部のブッダ像のある祀堂入口の左右には、立像が彫られている。天井を見ると、溶岩の流れをそのまま映した玄武岩を見ることが出来、この石窟が未完成だったことが伺える。


第9窟

e0074199_18561478.jpge0074199_18563546.jpg 塔院(チャイティヤ)タイプで、屋内際奥部には仏塔(ストゥーパ)が設置されており、礼拝堂として機能していたとのこと。壁面・柱面には僧の絵が描かれている。


第10窟

e0074199_1914345.jpge0074199_192027.jpg 石窟群の中で、最も古いものとされ、紀元前2世紀に作られた塔院。第9窟と同様、最奥部に仏塔があるが、第10窟のものの方が大きい。紀元前はまだ大乗仏教が興る前で、この石窟は小乗仏教期に建てられた為、ブッダの姿は直接描かれていない(小乗仏教では、偶像崇拝等が禁止され、その為ブッダを像や絵にして崇めることは無かった)。菩提樹や法輪の姿をブッダと見做して崇拝していたようだ。


第16窟

 僧院タイプ。
 うまく写真に収められなかったのだが、第17窟と並んで最も壁画が見事な石窟と言われる。
 ここで描かれているのは1人の女王で、絵画は「末期の女王」や「死せる王女」などと言われている。ブッダの異母弟ナンダが出家を決意した際、それを聞いたナンダの妻が卒倒するシーンを描写している。


第17窟

e0074199_19141595.jpge0074199_19143236.jpg この石窟の壁画の保存状態が石窟群中最も良いと言われ、顔料に色などもはっきり識別箇所が数多くあった。
 また、ブッダの行動を描いた壁画も綺麗に確認することが出来(上の画像)、シンハラという名の王子の冒険を描いた壁画では、王子の首飾りが今でも金色に光っている(下の画像)。


第19窟

e0074199_19194950.jpge0074199_1920642.jpg 塔院タイプだが、第9~10窟と明らかに異なるのは、ブッダ像がふんだんに登場することだ。これにより、これが大乗仏教期に建てられたものだと分かる。建物入口のブッダの彫刻も綺麗。また最奥部の仏塔への採光のため、建物入口に馬蹄形の窓が施されているのも特徴の一つ。


第26窟

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 塔院タイプ。ここでは、入滅する(要は死ぬこと)ブッダ涅槃(ねはん)像が左側に彫られている。横たわるブッダの下には、第1弟子アーナンダー(手塚治虫『ブッダ』にも出てくるね)はじめ多くの弟子が悲しんでいる様子が彫られている。e0074199_19302972.jpg
e0074199_19304585.jpg最奥部には仏塔が設置されている。








 ・・・以上が、アジャンタ石窟群のダイジェスト。
 非常に充実していたが、全て仏教石窟なので、少々「ブッダ疲れ」した・・・。




オススメ度(100%個人主観)

    ★★★☆☆
by bharat | 2005-09-30 00:58 | インドぶらり旅
第11回旅行は、マハラシュトラ州アウランガバード
 今回は、初めてマハラシュトラ州に行ってきた。

 マハラシュトラ州は、西端にある州都ムンバイ(Mumbai)が余りにも有名だが、内陸のデカン高原地帯にも見所のある場所が数多く存在する。
 ムガル皇帝の名がついたアウランガバード(Aurangabad)や、世界遺産に指定されているアジャンタ(Ajanta)エローラ(Ellora)など、数日無いと回りきれないくらい盛り沢山だ。

 カルチャースクールの先生引率の元、少人数ツアーに参加、2泊3日で上記3箇所を周遊してきた。第9回~11回に分けて記すことにする。


世界遺産への移動拠点 アウランガバード
e0074199_327398.jpg マハラシュトラ州都ムンバイから北東に400km弱にあるアウランガバード。
 今回は、ムンバイ経由で、デリーから空路で入った(合計4~5時間くらい)。
 インディアン・エアラインズで行ったんだが、インド国内線の中でも特に評判が宜しくないらしく、あとからインド人の友達に「俺らでもあの会社の飛行機には乗らないよ。」と驚かれた。
 別に機体に然したる問題は無かったと思うが、機内に真っ白な蒸気が絶えず吹き込んできたのが気になったな・・・。
 アウランガバードは、ムガル第6代皇帝の名アウグランゼーブに由来しており、彼が皇帝になる前デカン太守としてここに赴任した際、この地を「アウラングの町」という意のアウランガバードと名付けた(1639年)。
e0074199_3281865.jpge0074199_3284467.jpg 現在でも、ムガル建築物が数多く残存しているほか、織物業でも大変有名な場所で、ヒムロー(Himroo)織り・パイタニー(Paithani)織りという2つの手法で織られる生地・衣類が特産物となっている。
 また、アウランガバードを観光することの無い人たちも、この地を数多く訪れる。それは、この地が世界遺産であるアジャンタ(第7回その2参照)とエローラ(第7回その3参照)へのアクセスにちょうど良く、ホテルも充実していて、移動手段も空路・バス・鉄道と3拍子揃っているからだ。
 我々が宿泊したホテルからも、アジャンタ/エローラ観光案内情報の掲示や、同地域に関する出版物販売がなされていた。



グリシュニスワル寺院(Ghrishneswar Mandir)
 エローラ石窟群に程近い場所にある寺院。
e0074199_3351528.jpge0074199_3354317.jpg ムガル期に建てられたヒンドゥー寺院で、保存状態が大変良く、現在も地元参拝者が数多く訪れ、本堂にあるリンガ(男根)への御参りをしている。
 ヒンドゥー教徒でなくても本堂に入ることは許されるが、男性は上半身半裸にならなければならない。
 本堂では、リンガに御供えをする女性参拝者がいたり、リンガの根元の台座(これはなんと女性生殖器らしいが)に頭をこすり付ける男性参拝者がいたりと、ちょっと異様な雰囲気だった。

 ヒンドゥー文化の禁欲的な側面と、この男根崇拝がどうも直接リンクしないのは僕だけだろうか・・・後日、きちんと納得いくまで調べるとしよう。

リンガ(画像は小さな置物)
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ダウラタバード(Daulatabad)
e0074199_336563.jpg こちらもエローラ石窟群付近にある。
 1338年に建てられたこの城塞都市は、見るからに異様である。
 頂点の高さ200mの場所に要塞を建設し、これを取り巻くように城壁を形成、市街機能を整備する・・・つもりだった。
 というのも、トゥグルク朝のムハンマド・トゥグルクがこの場所への遷都を計画し、当時の都デリーからの移住を強行した。その道中、大量の落伍者が発生、遷都を中止せざるを得なかったのだそうだ。
e0074199_3362491.jpg しかし、この絵、どこかで見たような・・・あ゛、『天空の城ラピュタ』だ。
 そぉいえば、インド生活の長い親友が、「『ラピュタ』にはインドのサンスクリット文字で発音される登場人物が数多く登場しているから、宮崎駿は絶対インドをモデルにしている」と言っていたのを思い出した。



アウグラングゼーブの墓
e0074199_12465199.jpg アウランガバード市街地から車で約30分、小さな集落の中にひっそりとムガル建築の寺院が建っている。こんなところにムガル第6代皇帝の墓があるなんて、誰も思わないだろう。
e0074199_12471760.jpg 親父の第5代皇帝シャー・ジャハーンが、公費の限りを使ってタージ・マハルなどを建設したのに比べ、子のアウグランンブゼーブは質素で敬虔な宗教家であったらしい(反面、他の宗教への弾圧も相当行った)。自分が死ぬ際、自分の墓に公費を使うべきではないとして、皇帝の私費だけで墓を建てる様家臣に命じた。因みに、彼の私費は、自分が写経した経典を販売して得たお金(今で言う印税・著作権益みたいなもんか?)だけで、本当に僅かな金額だったんだそうだ。
 シャー・ジャハーンが、城の敷地内に黄金茶室を作った豊臣秀吉なら、アウグランゼーブは差詰め必要最低限の装備しか持たない駿府城に篭った徳川家康って感じかな?



ブラック・タージマハル
e0074199_22225827.jpg 正式名称は、ビービー・カ・マクバラー廟(Bibi-ka-Maqbara)。 黒くないのだが、本家タージ・マハルが純白の大理石で出来ているのに対して、この廟が青白い石で出来ている為、また、本家より作りが雑な為、こんな呼び方をされている。
e0074199_22402370.jpge0074199_2239575.jpg 17世紀に、アウグランゼーブが亡妃の為に作ったもので、とても小ぶりな印象を受ける。壁面の装飾も、本家が宝石を埋め込んでいるのに対して、この廟はただのプリンティング。かろうじて、正面門の装飾が細かいのが救いか・・・。



大きな池のある寺院 パンチャッキ
e0074199_2255744.jpg パンチャッキ(Panchakki)・・・変な名前だが、水車という意味らしい。大きな池をたたえたイスラム教系施設で、水力で食物を挽く設備で食べ物を作り、巡礼者に与えていたという。併設された公園でくつろぐ人や、池の魚にエサをやる人など、ノンビリした雰囲気だった。



牛のコスプレ
e0074199_22495837.jpg 市内外の家畜が、とてもカラフルなのもこの地の特徴だ。
 所有主が家畜を大事にしている表現方法らしいのだが、牛の角は様々な色に塗られており、頭に装飾された布をかぶったものもいた。



オススメ度(100%個人主観)

    ★★★☆☆


by bharat | 2005-09-29 16:15 | インドぶらり旅
第10回旅行は、チベット亡命政府ダラムサラー
e0074199_14412528.jpge0074199_14472614.jpg アムリッツァル(Amritsar)で黄金寺院などを見た後、車で東進。

 100km余り走ると、パンジャーブ(Punjab)州北西の端にある、パターンコート(Pathankot)に到着。
 そこから、ヒマーチャル・プラデーシュ(Himachal Pradesh)州に入る。


チベット亡命政府の街 ダラムサラー(とマクロード・ガンジ)

 パターンコートから更に東90km、ダラムサラー(Dharamsala)、マクロード・ガンジ(McLeod Ganj)の街に入った。着いたのは、夜8時頃だったかな。

 チベット亡命政府のある場所として有名なダラムサラーだが、実際の拠点はここから数km離れたマクロード・ガンジという場所に集中している。
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 このマクロード・ガンジ、英国統治時代のパンジャーブ副総督マクロードと、市場という言葉ガンジを夫々とって名付けられた場所で、元々は英国軍の駐屯地として機能していた。
 しかし、御存知の方も多いと思うが、1960年にチベットのダライ・ラマ法王がここに亡命してきて以来、この街のイメージはチベット亡命政府一色である。

 
 街の構造は、高山地帯なので細い道が山にへばり付く様な格好になっていて、その細い道を挟むようにホテル、食堂、土産物屋が並んでいる。

 街の入口付近のホテル、Hotel India Houseに宿泊することに。
 オフ・シーズンだったので、費用は800ルピー(約2000円)。
 部屋も綺麗で、1階にはレストランも併設されている。
 スタッフの対応も親切で、流暢な英語を話す。
 良く見たら、旅行ガイドLonely Planetにも記載されている有名なホテルだった。

 荷物を部屋に置いて、早速1階のレストランで夕食を採ることに。
 楽しみにしていた、チベット・中国料理を食べた(どれも美味だった)。
 モモ(Momo:餃子みたいなチベット料理)に、トゥクパ(Thukupa:チベット料理、いわゆる汁ソバ)。e0074199_1441302.jpge0074199_14581131.jpg


 久々のマサラ抜きの夕食に満足して、就寝・・・・・・


街中はまるで日本の田舎町

e0074199_14442527.jpge0074199_14444336.jpg 翌朝から、街を散策。
 街行く人の顔も日本人ぽいし、牛のウ○コは無いし、まるで日本の田舎に来たような感じを受ける。道端で、モモと汁ソバをほおばる。・・・その後、街の中心を成すツクラカン堂(Tsuglagkhang Complex)を目指して歩く。


仏教寺院群 ツクラカン堂

 エンジ色の袈裟をまとった僧が行き交う一際大きな寺院の集落。e0074199_14452630.jpg
 この中には、ダライ・ラマの公邸、寺院、集会所などがあり、袈裟を売る店、土産物屋、本屋なども入っている。
 袈裟の販売店では、僕のヘスタイルを見て、「一着いかが?」と言わんばかりに微笑む。

 ツクラカン寺院に入ると、中央には大きな金色の釈迦像。
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 向かって左側(チベットの方角)には、観世音菩薩像。これはダライ・ラマ自身を神格化して表しているものなのだという。
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 本堂脇に小さなマニ車、また別の御堂でも大きなマニ車を発見。
e0074199_1501236.jpge0074199_1503210.jpg マニ車とは、読書きが出来なくとも、経文を全て暗唱せずとも、神の慈悲を受ける事が出来る様作られたもので、チベット仏教の大きな特色でもある。
 クルクル回る筒の中にはマニ聖典(チベット仏教の経典)が書かれた紙が入っていて、この筒を自分の手で回せば、マニ聖典を唱えたことになると解釈される。

 因みに、このマニ車、日本の寺院でも見かけることがある。
 僕は関西にいた頃、四国八十八箇所を巡礼したことがあるんだが(時間が無かったので車で回った)、そのいくつかの寺院で、やはりこのマニ車を見かけた。

 帰り際、このマニ車のハンディ版を200ルピー(約500円)で購入。e0074199_14515330.jpg







 ダラムサラー・・・見るべきところが山ほどある訳ではないが、街の風景・食べ物・人々などがインドというより日本に近い印象を受け、とても懐かしい気分にさせてくれた。
 今度は、ダライ・ラマがいる時期に来て、是非会ってみたいな。
 ※今回行った時期は、欧州を歴訪していたみたい。


オススメ度(100%個人主観)

   ★★★★☆
by bharat | 2005-09-23 21:01 | インドぶらり旅
第9回旅行は、シク教徒の総本山アムリッツァル
 今回は、日系企業駐在員の奥様とその御友達の旅行に、付いて行ってのもの。
 快適な日本車での移動、とても楽させて頂きました。
 御両名、この場を借りて御礼申上げます。

シク教徒の総本山、アムリッツァルの黄金寺院!
 今回行ったのは、デリーの北西約430km、アムリッツァル(Amritsar)。
 同地にある寺院は、その姿から黄金寺院(Golden Temple)と呼ばれ、シク教徒の総本山だ。

 シク教徒は、インドに約2,000万人おり(いっぱいいるようだが全人口比は数%)、一般的に頭にターバンを巻いている(そうでない人もいるが)。
 シク教の開祖はナーナクというグル(導師)で、ヒンドゥー教・イスラム教双方の合理的な要素を取入れて教義を完成したと言われている。ヒンドゥー教の輪廻転生の概念はあるが、カースト制度には反対しており、苦行を行う必要も無い。またイスラム教同様に、唯一神を崇拝する。聖典は「グル・グラント・サーヒブ」と言われ、10人のグルの言葉を纏めたものだ。
 敬虔な信徒が、ヒゲを生やし、ターバンを巻いているのは、髪を切らずヒゲを剃らないことが神聖性を象徴すると考えられているからだ。

 で、この黄金寺院は、1604年に5代目のグルが建立したもの。その当時は黄金ぢゃなかったんだが、18世紀後半にシク王国を建国したランジート・シンが、1802年に屋根を金箔で覆って、今の姿になった。


 デリーから車で飛ばすこと約10時間、黄金寺院に到着。
 観光地的な雰囲気はあまり無く、客引きもうっとうしいほどでは無い。

 早速、靴を脱いで敷地内へ。

 ・・・と、いきなり池の真ん中に浮かぶようにピカピカの建物が見えてきた。
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 テカリ具合が、日本の金閣寺の比ぢゃ無い。
 ホントにまぶしい。
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 因みに、周りの建物の頭頂部もテカッてた。
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 池の水は不死を象徴し、寺院本堂へは一本の橋が渡されている。
 尚、本堂には4つの入り口があって、4つのカースト(バラモン、クシャトリア、バイシャ、スードラ)が皆平等に扱われると言う教義を示している。
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 本堂1階では、音楽に合せて経典を唱えていて、その前にあった賽銭箱からは札束が溢れ返っていた。
 因みに、この風景は絶えずテレビで生中継放映されている・・・視聴率どれくらいなんだろうか。
 3~4階まであるが、別に何があるって訳ぢゃ無い。


これも黄金寺院?

 次に行ったのは、ガイドブック曰く「ヒンドゥー教版 黄金寺院」と呼ばれる寺院。
 正式名称は、シュリ・ドゥルギヤナ寺院(Shri Durugiana Temple)。

 がしかし・・・ショボい。
 変に対抗意識があるにか、御堂の外には、金色の折り紙がヒラヒラ付いててチャッチいし、作りもパクリなんだけど、とってもウソ臭い。
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大虐殺の現場 ジャリアンワーラー庭園

 お次は、ジャリアンワーラー庭園(Jallianwara Bagh)。
 警備員のチェックを経て中に入ると、一見何の変哲の無い公園。
 現地人がレンガで出来た通路の影で涼んでいたりと、ごくありふれた風景だ。

 が、実態はさにあらず。
 反英運動が高まりを見せていた1919年4月13日、この公園でデモ(但し武器は持っていなかった)を行っていたインド人市民約20,000人に対して、英国軍が無差別発砲を行った。尚、出入り口は予め鍵が掛けられていたという用意周到かつ陰険なこの行為によって、400名弱が死亡、1,500名あまりが負傷した。このシーンは、映画『ガンジー』や『ザ・レジェンド・オブ・バガット・シン』でも取り上げられていて、鍵の掛けられた出入り口にしがみつきながら撃ち殺されるところや、井戸に飛び込んで転落死するところなどが映像化されている。
 実際に銃弾の痕がところどころに残り、井戸もそのまま残存している。
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もう一つの流血事件

 アムリッツァルは、1919年の事件のほかに、ごく最近、流血事件があったことでも知られている。
 穀倉地帯として大きな富を得るようになったパンジャーブ州の人々は、その富を中央政府に搾取されることに反発を覚え、1980年代に入ると、シク教徒の中の過激派が反政府運動を展開するようになる。1984年には、急進派と言われるビンドワンワーレー他1,000名が黄金寺院に立て篭もった。
 これに対して、インディラ・ガンジー首相はブルースターオペレーション(青い星作戦)を強行、黄金寺院を急襲し、過激派数百名を掃討した。
 事件そのものはこれで収まったが、シク教の総本山を汚したとして反発は激化、ついには首相がシク教徒の護衛によって暗殺されてしまう。
 今度は、これに怒ったヒンドゥー教徒がシク教徒を無差別的に襲撃する動きが起きる。頭にターバンを巻いて、ヒゲを生やしているシク教徒は、何とも分かり易い標的だった(この時期にターバンをやめ、ヒゲを剃るシク教徒が結構いたとか)。

 今は平静を保っているし、当社事務所でもみんな仲良く仕事をしている。
 でもほんの20年前にそんなことがあったとは・・・宗教が絡んだ争いは根深いね。


パキスタンとの国境

 アムリッツァルからほど近く、アタリ(Attari)という場所へ。
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 ここはパキスタンとの国境で、毎日日没時には、セレモニーが行われる。
 次の場所に移動するため、日没まではいられなかったが、儀式を撮影したVCDを店の兄ちゃんから50ルピー(約130円)で購入。


 アムリッツァルは、これでおしまい。
 黄金寺院のほかにはあまり見所は無いが、寺院だけでも一見の価値有り。


オススメ度(100%個人主観)

   ★★★★☆ ・・・ インドの「金閣寺」 一度は観るべし
by bharat | 2005-09-22 04:57 | インドぶらり旅
第8回旅行  メーラトでインド行政の陰を知る
 今回は、一風変わった趣向。

 日本の政府系の研究所のインド駐在研究員の方(Nさん)と知合う機会があって、そのNさんがデリー郊外に調査に行くというのを聞いて、無理を言って同行させて頂いた。
 因みに、官庁の方も1名加わり、総勢3名(+運転手さん1名)で旅だった。


インドならではの調査目的

 Nさんの調査目的は、インドの政府が打出す諸政策が、都市部以外の農村などで、どれだけ浸透しているかを知るため。
 インドの国土の広大さ、政治の腐敗、言語・文化の相違など、様々な要因が重なり、中央政府の政策が末端に届くのは非常に難しく、それ故その実態を詳細に調べ、原因究明を行うというものだ。

 インドならではの、ちょっと考えさせられる議題だ・・・。


デリー郊外の街 メーラト

 向かった先は、デリーから北東に70kmほど行った、メーラト(Meerut)という小さな街。
 小さな、といっても人口は100万人を超える。

 この街は、1857年のセポイ(シパーヒー:インド人兵士)の反乱が起こった場所。
 奇しくも、最近インドで公開された映画『マンガル・パンデイ』がまさにこれを扱ったもので、インド人の英国軍兵士マンガル・パンデイが、英国軍のインド人に対する対応に業を煮やして反乱するという内容だ。最終的な反乱のきっかけは、使用する新型銃の銃弾の包みが牛・豚の脂で出来ていることを知って。牛はヒンドゥー教徒に神聖視されており、豚はイスラム教徒に忌み嫌われており、これらで出来た銃弾の包みを歯で破って弾込めするというのは、とても耐えられるものではかなったということだ。
 結局、反乱自体は小規模なものに終わり、マンガル・パンデイは絞首刑に処せられるが、その後、この反英活動はインド国内の藩王たちに広まり、ひいては大規模な独立運動に発展していく。

 ・・・で、話をメーラトに戻すと、セポイの反乱の地であるのも関わらず、記念碑らしきものや目だった像も無い。
 過去は過去ということか・・・。


強烈な実態

 デリーを出発して国道を走ること約2時間半、街の中心部に到着。
 街に着く少し前からドシャ降りで(結局この雨は丸2日間続いたが・・)、そのせいで道路はドロが洗い流されて手抜き工事のアスファルトがむき出しになりガタガタ。まるで、ラクダにでも乗っているような感じだった。
 今回の調査に協力してくれる、メーラト大学の教授を大学でピックアップし、いざ調査へ。
 

 まず、教育面の充実具合を調べるため、周辺の小学校を視察することに。

 インドの小学校は、政府の政策により、学費タダで受講できる公立校があり、建前上はカーストの上下や貧富に関わらず、みんな学校に行けるようになっている。
 しかし、公立校の教員はレベルが一様に低く、また彼らのモチベーションも無いので、いい加減な内容で授業がなされるケースが少なくなく、また勝手に休講になるなど、満足の行く教育現場になっていないとのこと。
 加えて、教材費や筆記用具購入費、制服購入費は実費であるため、貧しい家庭の子はやはり通学出来ないという。
 金を工面出来る家庭は、もっぱらプライベートスクールに子供を通わせるのが常識で、要は政府が公立小学校関係に費やしている支出は殆ど役に立っていないことになる。

 
 当日も、土曜日午前中には授業があるはずなのに、公立校は閉まっていた・・・勝手に休講した様子だ。

 プライベートスクールは空いているというので、急遽そちらを見させて貰うことに。

 ドロでグチャグチャになって前庭を通って、校舎へ。
 だが、校舎と言える代物はどこにも無く、レンガでコの字型に囲った壁に粗末な屋根をかぶせただけ。
 当然、照明は無く、ボロボロの黒板が1つ。立派な机とイスが余計に空しく映える。
 制服はあるらしいのだが、買う余裕のある子だけ着ていた。

 写真を撮ってもいいかと聞くと、2つ返事でOKしてくれた。
 別に整列しなくても良かったんだけど・・・。
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 学費は、月に200~300ルピー(約500~800円)だが、周辺住民の平均年収が10,000ルピー(約26,000円)前後なので、ギリギリの出費なのだという。

 このあと、イスラム教徒の学校も視察したが、状況は同様だった。



 次に福利厚生面をチェックするため、周辺の病院を視察することに。

 インドでは、貧しい人でも診療・治療を受けられる様、各地域ごとに公立の病院を設立。
 薄価で、診察を受け、薬を貰い、場合によっては入院治療を受けられる体制を採っている。

 が、それも建前の話で、実際は、病院関係者が政府補助金を着服し、薬剤を横流しして金を作り、正しい形で末端に恩恵が届くことは殆ど無いという。

 公立の病院前に行ったのだが、門は閉まったまま。
 人の気配は全く無かった・・・。
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 なんともやりきれない実態だが、Nさんは全てを悟ったように、

   「これでも良くなったんです。
    20年前は、政府が100の金を投じても
    末端には10~15しか届かないと言われていたんですが、
    今は25くらいが末端に届いていると言いますから
    ・・・ちょっとずつ良くなってきているんです。」

と言った。

 インドに来て2ヶ月そこそこの僕には、そこまで悟れない状況だったなぁ。



国民的スポーツなのに・・・

 農村部を走っていると(走るといっても実際は道がデコボコだから時速10kmくらいだと思うが・・・)、周りの風景はどことなく日本の田舎をホウフツとさせる。
 なんでもこのあたりは稲作が盛んなんだそうで、道端の田んぼの稲がふくらんで頭を垂れている様子が、日本のそれとカブッた。

 途中、部落を通過している途中、家の前で、男の人がミシンで丸いものを縫っているのを見た。

 僕が、

   「あれ?何してるんですか」

と聞くと、Nさんが

   「何でしょうね。降りて聞いてみましょう。」

と言い、車を降りて男の人に直接聞いてみることになった。
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 聞くと、クリケットのボールを作っているんだと言う。
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 クリケットは、野球の原型となった球技で、ルールはさておき、要は球を棒で打つ競技だ。
 インドでは、一番人気のスポーツで、クリケット選手は映画俳優と並んで大人気だ。

 その国民的スポーツの球は、動物の皮で出来ている為、つまりケガレている為、指定カーストの人が製造に従事しているのだ。

 話をしてくれた人も、指定カースト者だった。
 (このくだりについては、カテゴリ「ふと思うこと」の「カースト カースト カースト」を読んでみて下さい)

 うぅむ、国民的スポーツなのに、ボール作りはケガレ扱いか・・・複雑だな。


何にも知らない村長さん

 その後、3つの部落を訪問、各部落の村長さん・前村長さんにインタビューした。

 部落の様子
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 インドの村長さんは、選挙で選任されるんだが、リザーブシステムという仕組みによって、一定の頻度・枠で、指定カースト者が選任されることになっている。
 指定カースト者が差別されることなく政治に参加出来る様、中央政府が便宜を図ったものだが、実態はと言うと・・・・

 1人目は、指定カースト者の女性の前村長さん。
 因みに、その部落はジャートと呼ばれるヒンドゥー・カースト者と指定カースト者の混在する部落だった。

  「こんにちは、あなたはハリジャン(神の子:指定カーストの総称)ですね?」

    「はい・・・。」

  「あなたは、前期、村の政治を司っていましね?」

    「はい・・・。」

  「あなたは、政府の基本政策○○を知っていますか?」

    「いいえ。」

  「聞いたこと無いですか?」

    「無いです。知りません。」

  「では、他の政策△△を知ってますか?」

    「いいえ。政治のことは良く分からないんです。」

  「そうですか。今の政権についてどう思いますか?」

    「とても良いと思います。何の問題も無いです。」


 2人目は、隣の部落の現職女性村長さん(指定カースト者)。
 その部落も、1つ目の部落とカースト構成は同じ。
 で、インタビューしたが、答えが、1人目とま~ったく同じ。
 加えて、2人目の女性は、読み書きが出来ず、政府から届く書類を理解する事も出来ないと言う。秘書と呼ばれる政府役人が派遣されて、村長にサインの仕方だけ教えて、あとの実務はその秘書が取り仕切るんだと。

 Nさん曰く、

  「結局、この制度は有名無実化しているんです。
   村長は、何も分からず秘書やダンナの言いなりになっているだけです。
   一部、しっかり政府方針を理解して、発言・行動する指定カーストの
   女性村長もいますが、ごく少数です。」

だと・・・農村部の教育に問題があるだけに、なかなかすぐには解決しない問題かもな。


 で、3人目。
 男性の現職村長さん。
 ヒンドゥーカースト者で、ヒンディー語の読み書きも出来そうな感じ。
 中央政府の政策については、少し内容を知っている様子。
 でも詳しくは分からないらしく、

  「内容は詳しく知らないが、中央政府は良くやってくれている。」

と訳の分からない持論を展開していた。

 ここでも、Nさんがバッサリ。

  「ヒンドゥーカースト者の村長は、政府と癒着しているケースが多いです。
   政党の中には、彼ら農村部の人たちを支持母体としているものもあり、
   そういった政党が支持を得たいがために村長たちと癒着するんです。」

なるほど・・・奥が深いな。

 余談だが、この部落の入り口に、ヘンテコな像が立っていた。
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 指定カースト者にも関わらず、その明晰な頭脳を見出され、一流教育を受けたのち、ついにはインドの憲法創立に関わった、アンベートカルの像だった。
 彼は、インド独立時に、カースト制度廃止を声高に訴え、その条項を憲法に入れることに成功する。しかし、有名無実化した実態を更に改善しようと試みるうち、彼自身の宗教心(彼はヒンドゥー教徒だった)との葛藤に行き着き、遂には仏教に改宗する。
 アンベートカルその人の話については、もっと勉強して別の機会に書こうと思うが、この中央政府によって建立された像をめぐって、つい最近部落のヒンドゥー・カースト者と指定カースト者との間で小競り合いがあったという。前者が像を取り壊そうとし、後者がこれを止めに入って、衝突したみたいだ。
 説明してくれたメーラト大学の教授が、ボソッと「こんな像、いらないのに。」とつぶやいたのが何とも意味深だった。勿論、彼はヒンドゥー・カースト者だ。


 2つ目の部落で、指定カースト者の住民と話すことが出来た。
 住居は、レンガすら買えず、土で出来ていた。土砂降りのせいで、カベはところどころ崩れ始めていた。
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 70歳くらいに見えた男性は、聞くとまだ50歳だと言う。
 最近病気になったが、近くの公立病院は機能していないし、私営の医者は高いので、本当に深刻な病状にならない限りは病院には行かないと言う。

 また部落の様子で気になったのは、車はおろかバイクすら殆ど見かけないこと、キレイな井戸がやけに目立っていたこと。前者は経済力が無いのと道路インフラ未整備なため、後者は政府政策により設置された「インディア Mark-Ⅱ」。
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 全て見終わって、Nさんに、

  「農村部を見ると、中央政府がやっていることは
   ムダになっているように見えるんですが・・・」

と聞くと、

  「おっしゃる通りです。
   結局、教育の行き届いていない地域の人々に
   政治に無理矢理参加させること自体
   ムリなんです。
   彼らが自活する方向に後押しする政策が
   必要なんですよ。
   例えば、何にも難しい事は考えず、
   部落から街に伸びる道路を舗装する。
   そうすれば、彼らは勝手にそこを行き来して
   牛乳や手工芸品を街に売りに行くようになります。
   それがインドの政府には分からないみたいなんですよねぇ。」


 ・・・その通りだなと思った。
 「何かしてあげる」んぢゃなくて、「何か出来るようにする」ことが大事なんだな、きっと。


 今回の旅行は、いろいろ考えさせられたな。



オススメ度(100%個人主観)

  ★★★★☆
by bharat | 2005-09-18 10:30 | インドぶらり旅
カースト カースト カースト

インドを語る上で、避けて通れない話題 「カースト」 。
インドに来て約3ヶ月、日々の生活に垣間見られる「カースト」の名残について思うこと・・・


カーストとは?

 ヒンドゥー教の基本概念である、「輪廻転生」「浄・不浄」の概念から生まれた社会構造。
 ヒンドゥー教では、現世で、ダルマ(戒律)を遵守して生きた人間は来世でより良い環境に生まれ変わることが出来るとしていて、現世社会をたくさんの階層に区切って自分のポジションを明確化した。
 これが、カーストで、我々が世界史で勉強したのは、有名な4区分、「バラモン(ブラーミン):僧侶」「クシャトリア(クシャットゥリ):戦士」「バイシャ(ヴァイシャ):商人」「スードラ(シュードゥラ):農民」。上のカーストに行くほど、「浄」つまり清らかでケガレていないことになり、スードラの下には「不可触賎民:untouchable」と言われる人たちがいて、最もケガレていると見做されている。

 上記身分区分は正確にはヴァルナと言われていて、これを細分化したものがカースト。
 カーストの種類は3000くらいあると言われているけど、インド人も正確な数字を知らないみたい。
 語源は意外にもポルトガル語。もともとインドでジャーティと言っていたんだけど、16世紀にインドに進出したポルトガルがこの言葉を母国語カスタ(階級)にあてて、それがなまってカーストになった。

 各カースト(本当はヴァルナだが、カーストで統一して書きます)は、相容れない社会構造を確立して、1947年のインド独立時にカースト廃止、49年に不可触賎民撤廃が制定されたにも関わらず、その名残はず~っと残存し、今でもインド人のマインドはこの概念が前提になっているようだ(このへんは後述します)。
 因みに、49年以降、不可触賎民を指定カースト、上の4つのカーストをヒンドゥーカーストと言うことにしている。




それって、身分区別を助長しただけじゃ・・・?

 インド独立以降も、法でカースト撤廃が決められたのちも、何千年も続いた考え方が突然変わる訳は無いし、何より全人口の8割以上が信仰するヒンドゥー教の基本概念がバックにあるんだから、急に一元構造の社会になる訳が無い。
 何より、就いている職業でカーストが分かってしまうし(例えば清掃屋さん、アイロン屋さん、屍体処理員、皮革製品作業員などは低カーストの人たちしかしない)、自分の苗字でカーストが分かってしまうんだから、「この人は、自分より上の人だ/下の人だ」と言う感覚は全然無くなって行かない。

 また、中途半端なことに、指定カーストの人たちのために、政府はリザーブシステムというのを作った。
 これは、指定カーストの人たちが、今まで高カーストの人たちしか付けなかった職(政治家・教員など)に就ける様、また教育レベルの高い学校に行ける様、一定の枠を設けて優先的に就職・通学出来る様にした。
 ただ、これって、指定カースト出身者からすると「私は指定カースト出身です」って言ってるようなものだし、ヒンドゥーカースト出身者からすると「あいつは能力も無いのに指定カースト枠の恩恵で自分と同じポジションに来やがった」ということになるわけで、返ってカーストの上下を思いっきりビジュアル化しているだけな気がするんだよね。


インドでのガンジー人気はイマイチ!?
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 インド独立運動に貢献し、日本でも御馴染みの、マハトマ・ガンジー。
 
 彼は、インド独立に際してカースト制度のあり方についても当然考えていたんだが、その行動が故に、インドでは驚くほど人気が無い。

 彼は、アフリカでの体験などをもとに、インドがイギリスの手を離れ、カースト制度の弊害を捨て去り、真の独立国家となることを目指して活動を展開した。ガンジーの伝記ぢゃないから、活動内容の詳細には触れないよ。

 その後、カーストの上下に関係無くイギリスからの独立運動が各地で激化するが、だんだん独立をスムーズに行う為に、政治力・金銭力のある人たちの協力が不可欠であることが分かってくる。彼らの大半は、バラモン・クシャトリア出身だったので、結局ガンジーは最終段階では、声高にカースト制度廃止を叫ばなくなっていった。

 この政治的融和が、インド人にはとても弱腰に映るらしく、「ガンジーがもっと強硬に進めていたら、今の社会構造ももっと違っていたのに」という感想を持つインド人がとても多い。

 彼が行った、不可触賎民への就職斡旋などは評価に値するが、結局上位カーストの反発を考慮してストレートにカースト廃止を言えなかった彼は、不可触賎民を「神の子=ハリジャン」(※K-1の山本キッドぢゃ無いよ)と呼び直し、差別は無くしたいが、区別はするという格好を採った。
 元不可触賎民の中には、この「神の子」の表現がモノ凄い皮肉に聞こえるらしく、そう呼ばれるのをとてもイヤがる人もいる。


 反面、日本では余り馴染みが無いが、スバス・チャンドラ・ボースやバガット・シンなど、過激な反英運動を行った人たちの人気が非常に高く、バガット・シンについては何度も映画化されている。数年前に1回イギリス人が作った映画「ガンジー」がキレイに纏まっているので話題になったのと比べると、やはり歴然の差だ。ボースについては、最近のマンガかわぐちかいじ作「ジパング」に登場しているね。マンガの中で出てくる彼はかなり気骨のある人物に描かれている。

ボース
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バガット・シン(のDVD)
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こんなところにもカーストが・・・

 こちら首都デリーでは、みんな雑多な社会で生活しているから、一見カースト社会から脱却しているようにも見えるが、さにあらず。


 前にも書いた通り、僕は現在JNU(ジャワハルラール・ネルー大学)で1年間だけ学生をしているんだけど、この入学申請手続などにも、カーストの縛りがロコツに出てくる。

 まず、入学申請のフォーム。
 僕は外国人用の用紙を貰ったから気づかなかったんだけど、インド人用の用紙にはカーストを書く欄が設けられていて、それに記入しなければならない。なんでもそれを書かないと、指定カーストかどうか判断出来ず、大学側が特別措置を採れないからだと言う。大学が指定カースト者に対して採らねばならない特別措置とは、一定の枠内で優先的に入学させる、学生寮に優先的に入寮させる、などなど。
 そんなことをするから、入学後、遅かれ早かれ、生徒の間でも誰がどのカーストなのか分かっちゃう。

 成績発表のやり方も結構強烈だ。
 学校が始まってすぐに、クラスに時間割を確認しようと、学部の掲示板を見たら、まだ前学期の成績発表が貼ってあった。
 どんな風なのかなぁと目を通したら・・・名前のあとに、なんとカースト名が記されてる!!
 よ~く見ると、カーストごとに別の紙になってる・・・。
 あとから周りの連中に聞いたら(彼らはヒンドゥーカーストだったが)、「当たり前ぢゃない、なんで同じ紙に並んで書かれなきゃならないの?」とバッサリ。
 習慣化されていて、何の違和感も感じていないようだった。


 首都の一流大学でさえ、こんななんだから、農村部はもっと凄いんだろうな・・・

 (その後農村に行く機会があった。詳しくはこちら)
by bharat | 2005-09-01 15:04 | ふと思うこと