<   2007年 05月 ( 26 )   > この月の画像一覧
File No.013 ジャラワ族の顔
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 アンダマン・ニコバル諸島のポートブレアに行ったときに購入した品。
 人類学博物館の土産物コーナーで見つけ、あまりの気味悪さに魅かれて買ってしまった。

 これは、アンダマン諸島の先住民であるジャルワ族の、顔にドロを塗る生活習慣をモチーフにしたもの。
 紙を固めて作られている。

 視線が非常にリアル。

 大友克洋ワールドにも繋がりがありそうな感じだ。
 「ドラゴンヘッド」のノブオにも似ているような・・・。
by bharat | 2007-05-30 10:30 | インドのいやげもの
Hotel (14) Hotel Mount Heera
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<名称>
 ホテル・マウント・ヒーラ Hotel Mount Heera

<住所>
 #287, MKN Road, Alandur Chennai 600016 INDIA

<電話番号>
 +91-44-2232-7001

<宿泊料金>
 Rs2,000-(約6,000円)前後 / 日

<特徴>
 チェンナイ空港の近くにあって、値段が安いという条件で引っかかってきたホテル。
 3つ星ホテルらしいが、兎に角スタッフの対応が最悪なホテルだった。
 空港までの迎えの車が来ない。
 そのことをフロントにクレームしても、ヘラヘラして受け流すだけ。
 ルームサービスで水を頼んでも、20分来ない。
 などなど、枚挙に暇が無いほど、御粗末なサービス内容だった。

 部屋は古いが我慢できなくは無い。
 但し、湯が出ないので、冬季は使えないだろう。


 立地が良く、宿泊費の安いホテルは、なかなか無い・・・。
by bharat | 2007-05-29 10:30 | ホテル情報
Hotel (13) Fortune Resort Bay Island
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<名称>
 フォーチュンリゾート・ベイアイランド Fortune Resort Bay Island

<住所>
 Marine Hill, Port Blair 744101 Andaman & Nicobar INDIA

<電話番号>
 +91-3192-234101

<宿泊料金>
 Rs3,300-(約8,000円)前後 / 日

<特徴>
e0074199_19454359.jpg アンダマン諸島のポートブレアに行ったときに宿泊したホテル。
 同地域では最高となる4つ星ホテル。
 部屋は悪くなく、バスルームは狭いが湯量も十分。
e0074199_19484165.jpg 酒も飲める。
 バーは、その名もNicoBAR・・・なんという素敵で安直なネーミング☆
e0074199_19502020.jpg 廊下には、環境保護を訴える掲示板がかかっていた。
 が、インド人の観光客たちが、ポートブレアでゴミをポンポン捨てているのを見て、何か空しいものを感じた。
e0074199_19534248.jpg また特筆すべきは、このシェフの作る料理のマズさだ。
 とにかくマズい。
 インド料理でここまでマズいのは正直初めて、というくらいマズかった。

 見える景色は、とても綺麗。
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by bharat | 2007-05-28 10:30 | ホテル情報
第95回旅行は、ポートブレア(アンダマン&ニコバル諸島)
 インドの中で、一番辺鄙なところにある場所といえば、間違い無くココだろう。
 大陸から遥か東に離れたアンダマン・ニコバル諸島が今回の旅行先だ。

インド屈指のリゾート地?
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 地図で見れば分かる通り、インドの連邦直轄地なのだが、インドの東よいうよりミャンマーの南と言った方がしっくりくるくらい、東にはずれたところに位置している。

 この地域の歴史については、コチラに詳しく書いたので参照して欲しい。

 
 この諸島で玄関口となっているのが、アンダマン諸島にあるポートブレア(Port Blair)。
 1789年、英国の東インド会社のボンベイ海軍大佐アーキバルド・ブレア(Archibald Blair)がここを占領し、船舶の停泊場として使い始めたのが地名の由来だ。その後、一旦ここは荒天・疫病などの理由で1796年に放棄される。

 現在、ポートブレアへはコルカタチェンナイからフライトが発着している(デリーからも経由便が出ている)。

e0074199_17342182.jpg 今回は、3人の友達との旅行で、皆チェンナイからポートブレアに向かった。
 欠航・遅延が続発するとウワサのAir Deccan便だったが、ほぼ定刻にチェンナイを出発。
 Air Deccanは大都市間は激安価格なのだが、この区間は片道5,000ルピー(15,000円)もした。
 にも関わらず、機内はほぼ満員御礼。
 インド人にとって、身近なビーチリゾート地なのだろうか。
e0074199_17345041.jpg 70ルピー(210円)でサンドイッチコンボを購入(Air Deccanでは機内食は希望者が別途購入する仕組)。
e0074199_17361155.jpg コーヒーは自分で粉を混ぜるタイプ。
 これが・・・
e0074199_1736561.jpg 混ぜると、こうなる。
 めちゃ甘い。


 ポートブレアに近づくにつれ、大きな島がたくさん見えてくる。
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哀の流刑地
 今でこそ、リゾート地としてPRされているアンダマン諸島(ニコバル諸島は軍事施設)だが、その歴史は悲惨そのもの。
 先住民は、年々減少の一途を辿り、絶滅寸前の民族までいる。
 英国植民地時代には、インド独立を叫ぶインド人たちを片っ端から政治犯として捕まえ、大陸からこの地の刑務所にぶち込んだ。
 アンダマン観光は、そんな歴史の跡を確認する作業ともいえる。

独房監獄跡(Cellular Jail)
e0074199_197741.jpg 1858年に建てられた監獄の跡。
 セポイの反乱に始まる第1次インド独立戦争の後、英国政府は一旦は放棄したポートブレアに監獄を造営、インド独立を目論む反乱分子をここに送り込むようになった。
 第2次世界大戦期(インドでいう第2次インド独立戦争)の最中には、更に大量のインド独立戦士たちが収容されてきた。
 監視塔を中心に、放射状に独房の棟がのびる建物構造。
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e0074199_20302124.jpge0074199_2030328.jpg 中の独房や廊下は、今でこそキレイに白いペンキで塗られているが、独房内にはトイレはおろか排水溝も見当たらず、当時は糞尿まみれの不潔な状態だったという。
e0074199_20563713.jpg 独房棟の一番奥には、特別に写真の掛かった独房があり、そこがヴィール・サヴァルカール(Veer Savarkar)が収容されていた独房だと分かる。
 彼は、インドでは最も有名な活動家の1人で、『1857年 インド独立戦争(The Indian War of Independence 1857)』を発表・出版し、これがもとで1911年4月にこの監獄に入れられた。
e0074199_20391483.jpg 監視塔の部分は、博物館になっており、当時ここに収容された政治犯や、その他インド独立のために戦った活動家(インドでは彼らをFreedom Fighterと総評している)の写真や活動を展示している。
e0074199_20394230.jpg 中村屋にカレーを伝えた、ビハリ・ボースの絵もある。
 ここに収容されたという訳では無いみたいだ。



 一際目を惹いたのが、この写真。
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 カタカナと漢字で、「アンダマン刑務所」の看板。
 ここは1942~45年、大日本帝国軍の支配下になっていたのだ。
正確に言うと、スバス・チャンドラ・ボースが大日本帝国軍庇護下でシンガポールに建てた自由インド政府の支配下に置かれたのだ。
 ナガランド州のコヒマ同様、こんなところにもインドと日本との接点が。

e0074199_20484154.jpge0074199_20485626.jpg 大日本帝国軍と自由インド政府軍の集合写真や、自由インド政府のシンガポール本部の写真も展示してある。



 館内には当時の拷問の様子も展示。
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e0074199_2193273.jpg これは絞首台。
 下の白丸部分がパカっと開くつくり。
e0074199_21102718.jpg ただの偶然だが、このような残酷な目に遭っているカバ(のゴミ箱)を発見。



 ここでは、夕方の6時半から、音とライトのショーが開催されている。
 この手の催しは、デリーではプラーナーキラーで、他にもカジュラホグワリオールで観られる。
 ベースはヒンディー語で行われるが、英語でやってくれることもある。
 事前に確認すべし。
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ヴァイパー島(Viper Island)
e0074199_21595549.jpg ポートブレアからフェリーで45分・・・ヴァイパー島は主に政治犯の絞首処刑を行っていたところだ。
 島には牢獄の跡もある。
 2004年12月26日に発生したスマトラの大津波によって、ボロボロになったマングローブが痛々しい。
 軍用艦を修理する水上ドックも・・・この一帯が軍事上の要衝であることを再実感。
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人類学博物館(Anthropological Museum)
e0074199_2141183.jpg 市内にある博物館。
 ネグロイド系・モンゴロイド系の民族一覧、先住民の移動経路(インドネシアから流れてきたことを示している)、住居などを展示。
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日本軍戦没者碑
e0074199_2283768.jpg ガンディー・パークという庭園の中にある、大日本帝国軍戦没者の社。
 1997年に海軍慰霊団が来て造ったらしいが・・・恐らくこの南方戦線で生き残った方々が有志で組成した団体なのだろう。
 思わず、手を合わせてしばし黙祷した。
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e0074199_22124470.jpg 因みに、慰霊団の名前を記した名簿がタテヨコ間違って社に掲示されていたので、現地の人に直す様依頼・・・果たして後日ちゃんと直してくれたのだろうか・・・?



 このガンディー・パーク、地元民憩いの場として作られたらしい。
 地元民は殆どいないのだが、ナゾの遊具がそこら中に設置されている。
 写真は、シュールなデザインのイス。
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その他の見どころ
 島の悲しい痕跡だけでなく、ちゃんと観光地らしい見どころもある。

チャタム製材場(Chatham Sawmill)
e0074199_1627639.jpg 1836年に英国によって建てられたこの製材場は、アジア最大の規模を誇る。


コービン入り江(Corbyn's Cove)
e0074199_16345196.jpg ビーチリゾート地はアンダマン諸島の北の島々に広がっているが、ポートブレア付近にもちょっとした砂浜がある。
 入り江なので、全長は100~200mくらいしか無いのだが、砂浜の砂は細かくて色も明るい。 ここから見える景色も良い・・・のだが・・・
e0074199_18224170.jpg ふと脇に目を遣ると、2人のインド人がゴミ拾いをしている。
 着ているものもボロボロで、低所得労働者なのは明らかだ。
 観光で来る金持ちのインド人たちが容赦無く捨てるゴミを、こうして拾っている構図は、インド本土と何ら変わらない。
e0074199_1825463.jpg 砂浜のすぐ近くには、ゴミ焼却場があり、煙がもうもうと上がっていた。
 なにやら、環境破壊の現場を目の当たりにしている気がした。



e0074199_18264038.jpg 砂浜がちょうど途切れた辺りには、第2次大戦下に日本軍が作った塹壕が残っている。
 このタイプの塹壕は、海岸線沿いにいくつか残っている。



インドはここをどうしたいのか??
 今回、ここを訪れて思ったこと。
 それは・・・

   「インドはこのアンダマン諸島をどうしていきたいのか??」

という疑問だ。


 リゾート地を謳っているが、ホテル・レストランなどの受容れ施設は御粗末で、スタッフのレベルも超インドレベル・・・ホスピタリティの欠片も感じない。
 津波で受けた被害の復旧も遅々として進んでいない。
 フェリーで海に出れば、軍艦の写真を撮るなと船員が乗客を注意する。
 1点フォローするとすれば、現地の旅行代理店のサービスがとても良かったという点。

 環境対策も酷いもので、「ゴミを捨てるな」の看板もロクに無ければ、ゴミ箱も殆ど設置されていない。
 観光客は、海や道路に平気でゴミを捨て、波打ち際や道路脇にはゴミが積もっている。

 行きの飛行機から眼下に広がっていた島こそ綺麗に映ったが、いざ上陸すると汚い部分しか目に入らなかった。

 やりようによっては、モルディヴのような発展の仕方もあるのだろうが、今のままではまず間違い無く近い将来、環境破壊でリゾート地としてのステータスは無くなるだろう。


 いろいろ考えさせられる場所だった・・・。



オススメ度(100%個人主観)

     ★☆☆☆☆ ・・・ リゾートとして来たら相当ガッカリする

所要観光時間

     5時間 (観光地は少ない)
by bharat | 2007-05-27 10:30 | インドぶらり旅
File No.012 見ちゃうサル 言っちゃうサル 聞いちゃうサル
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 ダージリンの骨董品屋で買った品。


 とても、アーティクティックな劇団風なポージングをした結果、本来の主旨である見ない・言わない・聞かないという主旨を逸脱し、見ちゃってるし言っちゃってるし聞いちゃってる3匹の猿になっている。


 因みに、この所謂「三猿」のモチーフは世界中にあるという。
 起源は、道教とも論語とも言われている。

 道教で60年に1度、もしくは60日に1度訪れる庚申(カノエサル)の日。
 この日の夜には、体の中から三尸虫(サンシチュウ)という虫が天に昇り、天帝にその人間がした罪を密告しに行くのだという。
 その後、三尸の「三」と庚申の「申」がくっついて三猿に、中央の猿が天帝に密告しないよう口をつぐんでいる格好になったという。



 論語説は、孔子が顔淵に向かって言った言葉

  「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」
  (礼節にそむくことに目を向けるな、耳を傾けるな、言うな、行うな)

から来ているとする説。

 行うな、というのを性交するなと捉えて、三猿に股間を押さえた猿をもう一匹加え、「四猿」になっている絵・彫刻もあるという。
by bharat | 2007-05-23 10:30 | インドのいやげもの
File No.011 ガルーダ
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 ダージリンの骨董品屋で買った品。

 骨董品屋で買ったが、アンティークではない。
 値段が安かった(確か480ルピーくらいだった)ので、まず間違い無くレプリカだろうが、カッコ良かったので買ってしまった。

e0074199_1443318.jpg 一般に、ガルーダは神鳥とされ、起源はヒンドゥー教である。
 ヴィシュヌ神の乗り物としてしばしばヒンドゥ神話に登場、インドでもこのような絵や彫刻をよく目にする。


 興味深いのは、このガルーダが仏教にも強く影響を与えているという点。
 インド仏教においてはガルーダは神鳥として登場。
 その後、仏教が中国に伝播した際にはカルラ(迦楼羅)またはコンシチョウ(金翅鳥)として、更には日本には天狗としてその存在が認知されている。
 余談だが、日本の寺院でもよく目にする不動明王像の背景にある炎は迦楼羅炎と呼ばれ、ガルーダが吐く炎である。


 ここダージリンで購入したこのガルーダは、タッチが仏教系であると思われる。
by bharat | 2007-05-22 10:30 | インドのいやげもの
File No.010 アオ族の胸像
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 ナガランド州の玄関都市ディマプールの土産物屋で購入したもの。

 木製。

 ナガランド州には16の部族がいるが、そのうちの1つアオ族の胸像だ。
 アオ族は、へスタイルが特徴的で、みんなダイゴロウのように横一直線にハサミを入れたヘアスタイルだ。
 (但し、これは昔の話で、今の人々は普通の髪型をしている)


 あまり、売れセンの商品ではないらしく、店のオバチャンに「何のためにこんなの買うの?」と聞かれた。
 あなたの店の売りモンでしょが・・・何のために仕入れたの?と聞き返したくなったが止めておいた。
by bharat | 2007-05-21 10:30 | インドのいやげもの
第94回旅行は、大日本帝国軍激戦の地コヒマ
 インド東部ナガランド州の玄関口であるディマプールから、東に約80km。
 州都のコヒマに到着する。
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悪路に次ぐ悪路
e0074199_17194536.jpg ディマプールから僅か80kmしか離れていないのだが、兎に角道の状態が悪い。
e0074199_17191879.jpg 標高差約2,000mを一気に上る山道の殆どは未舗装で、軟らかい土壌と多雨が災いして至るところに地すべり・土砂崩れの跡が見られる。
e0074199_21594655.jpg にも関わらず、この国道がアッサム州~ナガランド州~マニプール州を繋ぐ一番マシな物流ルートになので、大型車が多い。
 これらが行き違うたびに渋滞が発生する。
e0074199_17222064.jpg 本格的な雨季はまだだが、それでも一部区間では土砂崩れによる通行止めが発生。
e0074199_1723023.jpg マニプール州のナンバープレートを付けた大型トラックが、何時開通するとも分からないまま、待ちぼうけを食らっていた。


史上最も無謀な作戦「インパール作戦」
 この一帯(ナガランド州~マニプール州)は、第2次大戦期の大日本帝国軍の勢力圏の西端にあたり、ビルマから兵力を西に進めてインド独立を目指す勢力と合流して戦局を打開するという「インパール作戦」の舞台になった場所だ(因みにインパールはマニプール州の州都)。

 インパール作戦は、ビルマ戦線を任された軍団長牟田口廉也が行った作戦。
 1944年、完全に米軍に主導権を握られた東南アジア戦線に一石を投じるべく、ビルマから陸路でインドに入り、英国からの独立を目指すインド勢力と同調して窮状打開を図ろうというのが狙いだった。
 このとき問題となったのが物資補給だったが、牟田口軍団長は3週間以内にコヒマ・インパールを陥落させるので、兵站の心配は無用と譲らなかった。軍団長の上には軍司令官がいるのだが、そのポジションには盧溝橋事件の際に牟田口の上司だった河辺がおり、彼の親心・上司心から左程検証もせずに作戦は承認されてしまった。
 当時、陸軍学校では、兵站は軽視される風潮にあり、専門家が軍組織内で主たるポジションにいなかったというのも悲劇の要因となった。

 現場を任された佐藤幸徳(コウトク)第31師団(「烈」)長は、当初よりこの作戦の実効性を疑問視。
 再三上官の牟田口に再考を上申したが甲斐無く、逆に「ジンギスカン作戦(現地で牛を大量調達し、物資輸送に使用。現地到着後にこれらを食料とするというもの。因みに現地の状況を全く調査せずに考えられた)」なる荒唐無稽な作戦を逆提案される有様だった。

 1944年3月、作戦は実行に移された。
 川の水量は想像を遥かに超え、陸路も予想以上に険しかった。
 牛の大半は川に流されあるいは崖から転落、輸送トラックも陸路を通れず分解したパーツを兵士たちが徒歩で運搬する羽目にあった。

 同年3月下旬、佐藤率いる第31師団「烈」は、コヒマ周辺到着。
 4月中旬にはギャリソン・ヒル(後述)を押さえ、コヒマを占領下とするが、その後戦局は急変。
 米国からふんだんな空中補給を受けた新鋭英国軍が大反撃に転じたのだった。

 弾薬・食料が底を付く環境下、牟田口から佐藤へは「4月29日の天皇誕生日までにインパール攻略されたし」との打電が入るのみだった・・・。
 結局、東京で盛大な式典が行われた4月29日、コヒマ周辺では飢餓が発生し始めていた。

 5月末には、ナガランド地域一帯に雨季到来。
 飢餓に加えて、マラリア・赤痢が大量発生、兵士たちは英国軍と戦闘する前からバタバタ倒れていった。
 佐藤は牟田口に対し再三物資補給を上申するも、「敢闘すべし」と断られ続ける。
 (因みに5月16日、東条英機首相兼参謀総長は、昭和天皇に「作戦につき不安なき状況にて既定方針を貫徹する」との上奏がなされている。)

 この間の佐藤師団長-牟田口司令官の遣取りは、当時の環境では考えられなかった。
 佐藤は、事細かに上官に意見している。
 これは当時完全なタブーとされていたが、佐藤は非常に自尊心が高く強情であったということと、大変部下思いであったということが彼をそのような行動に駆り立てたのだろう。
 「現状を知らない者に的確な判断は出来ない。場合によっては独断での撤退も有り得る」などかなり強烈なコメントを牟田口に残している。

 6月1日、佐藤師団長は独断でコヒマ撤退を決める。
 一気にビルマまで撤退した佐藤は、作戦途中で牟田口に解任された。

e0074199_15121221.jpg インパール~ビルマの山道には、無数の日本兵士の餓死者・自殺者が積もるように倒れ、その山道は「白骨街道」と呼ばれた。


 尚、作戦の中止が東条から天皇に上奏されたのは、7月1日だった・・・。


 終戦後、米国が牟田口を尋問した際、牟田口は4月下旬にインパール作戦が失敗だったことに気付いたと認めている。


 佐藤は、自らの手記に、「大本営・総軍・方面軍・軍のバカの4乗がインパールの悲劇を招来した」と辛らつに軍幹部を批判している。
 が、彼に軍の責任を糾弾するチャンスは訪れなかった・・・軍幹部がそれを恐れて軍法会議扱いにしなかったのだ。
 佐藤が閑職を転々とされた一方、総軍・方面軍・軍の幹部は次々に要職に付いていった・・・。



ギャリソン・ヒル(Garrison Hill)
 当時英国軍が駐屯地としていた丘。

M-3 戦車
e0074199_14172168.jpg 日本軍の列師団が撃破した英国戦車。
 今でも柵に囲まれて保存されている。
 案内してくれた人が、「日本軍は勇猛果敢に戦ったと聞いている。それを忘れないために今でもこうして大切に保存している」と言っていた。
 第2次大戦下、複雑な環境におかれたナガランドだが、総じて親日的な感情を持っているようだ。


英国軍兵士墓地
e0074199_14215231.jpg 丘の上、当時テニスコートがあった邸宅が日英激突の地となった。
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 その場所に大きな戦没者碑が建てられ、英国軍英国人兵士や英国軍インド人兵士の墓標が所狭しと並んでいる。
 無縁仏や10代で戦死した者の墓標も珍しくない・・・痛ましい限りだ。
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e0074199_14262054.jpg この墓地全体が、英国連邦府の機関によって維持・運営されているので、全て英国軍兵士の鎮魂のためのもの。
 日本軍を感じる要素は殆ど無いが、この小さな苗木が唯一日本軍の痕跡を示すもの。
 当時ここには、大きな桜の木が植わっており、その上から烈師団の兵士が英国軍兵士たちを狙撃したという。


ナガランド民俗村(Nagaland Heritage Village)
e0074199_1442058.jpg ハリウッドのパクリのような看板が目印。
 文字がいくつか取れちゃっているのは、御愛嬌。
e0074199_1442483.jpg 入口付近には、竹を使って建てられた公民館がある。
 ナガランドでは大量にとれる竹を建材としてPRしている。
あとは、ナガランドに住む16の部族の家のレプリカが並んでいる。
 最後の写真は、鳥の彫り物をした木管楽器。
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e0074199_1551692.jpg 酋長の家には、人間の首を貯め置く場所もある。


 行ったときにはなんか寂れた雰囲気を感じたが、毎年12月にはホーンビル祭り(Hornbill Festival)が開催され、全部族が民族衣裳をまとい、舞踊を披露する。
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e0074199_15145381.jpg ちなみにホーンビルというのは、ナガランド州のジャングル遅滞に棲息するくちばしがとても大きい鳥のこと。
 デリーナガランド・ハウスにも大きなレプリカが置いてあったな。


ディモリ・コブ
e0074199_1429446.jpg ちょっとしたリゾート施設で、ちょっとした集会場に、ちょっとした会食場所がある。

教会
e0074199_14323672.jpg ナガランドの人々は、その殆どがキリスト教徒(ナガランドの歴史についてはディマプール旅行記でふれた)。
 街にある宗教施設は教会のみ(本当はヒンドゥー寺院もあるのかも知れないが、旅行中1回も見なかった)。


ナガランドの食事
 ナガランドの食事は、米食中心。
 唐辛子は使うが、そのほかの香辛料は使用しない(要はカレーではない)。
 日本人の舌に馴染み易いものばかりだ。
 ヒンドゥー教徒ではないので、牛も食べる。
 写真はビーフジャーキー。
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 また、米から酒を造って飲む習慣がある。
 出されたのは、味の薄い濁り酒と米で造ったワイン。
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コーディネーター
 今回、旅をコーディネートしてくれたのは、ナガランド・ハウスに勤務する私の友人の弟とその御友達たち。
 車での案内や夕食、ホテル手配など、何から何まで世話になった。
 ・・・しかし、日本人ぽいなぁ。
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オススメ度(100%個人主観)

    ★★★★★ ・・・ インドの東端で日本を感じる

所要観光時間

    2~3時間 ・・・ 史跡は少ない、長期滞在型か!?
by bharat | 2007-05-20 10:30 | インドぶらり旅
第93回旅行は、ナガランド州の商業都市ディマプール
 この2枚の写真。
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 日本のものと間違えそうになるが、実はインドで撮ったもの。
 インドの東の最果て、ナガランドで撮ったものだ。

 デリーで開催された州別博覧会IITFで初めて関心を持ったナガランド州。
 第93回~94回は、ナガランド旅行記(第94回はコチラ)。


ナガランド州の歴史
 この州は、インドの東端に位置し、ミャンマーと国境を接している。
 ここには、現在16の部族が共存しており、インド中央政府ともうまく折合いをつけながら平穏が保たれているが、この平和な状態が訪れたのは、ここ10年くらいのことだ。
 かつてこのあたりの山間部族は首狩族として周辺地域とは明らかに異なる生活習慣をもっていた。戦争によって捉えた捕虜の首をはね、五穀豊穣の生贄として捧げるという、一種の自然崇拝を行っていたのだ。
 その後、英国の占領政策によって、その殆どがキリスト教に改宗させられた。


 第2次世界大戦期に入ると、この一帯は英国軍と日本軍の支配領域のボーダーラインとなる。
 日本軍の「インパール作戦」(当時占領下にあったビルマから西になだれ込み、インドの反英勢力と合流し戦局の打開を図ろうとしたもので、結局は大失敗におわった)により、日本軍はナガランド一帯にも侵攻。当時のナガランドを纏めるピゾ(のちのナガ民族評議会(NNC)議長)は、日本軍の後押しを受けたチャンドラ・ボース自由インド政府軍と協調路線を執った。

 日本軍は敗退したが、ピゾはチャンドラ・ボースから「インドが英国占領から解放された際にはナガランドの自治を認める」との約束をしていた。
 チャンドラ・ボース亡き後のインド独立の中心人物マハートマー・ガンディーに対し、NNCはナガランド独立を持ちかけるが相手にされず、ナガランドは1947年8月14日(インド独立の前日)、ナガランドの独立を一方的に宣した。


 インドのナガランド平定政策が本格化する中、東パキスタン(現在のバングラデシュ)の後押しを受けたナガランドは態度をますます硬化させ、1956年にはナガランドはまたも一方的に連邦政府の樹立・独自の憲法制定を宣言する。
 しかし、当の東パキスタンがインドの助力によってバングラデシュとして独立すると、後ろ盾を失ったNNCは急速に力を失う。各部族間で温度差があったものの、最終的に1975年、インド憲法の受入をして独立を完全に断念した(シロン協定)。


e0074199_18374666.jpg 最後まで独立を諦めない急進派は、ナガランド民族社会主義評議会(NSCN:National Socialist Council of Nagaland)などを組織。
 ミャンマーにいるナガ族の領域までも含んだナガリム(Nagalim)建国を求める過激な思想まで出てきた。
 だが、組織内の抗争によって徐々に勢いを失ったNSCNは、1997年インド政府と停戦協定締結、以降ナガランド州には平穏が戻った。


観光に力を入れているというものの・・・
e0074199_110892.jpg ナガランド州も他の州と同様に、観光客の誘致に力を入れているようだ。
 デリーでも、州別物産街などでナガランドの店舗を見かけることがある。
 また、ナガランド州観光事務所に行けば、観光地図を貰うことも出来る。
e0074199_115511.jpg がしかし、ガイジン観光客がナガランド州に気軽に足を運ぶには、まだまだ多くのハードルがある。
 まず、手続面。
 ガイジンは、ナガランド州に入るには事前に州政府の許可証(入域許可証)を取付ける必要がある。
 手続自体は、左程面倒くさくないのだが、申請から許可証発行まで結構時間がかかる・・・私の場合は1ヶ月くらいかかった・・・書類を受取ったのは旅行出発前日だった。
 次に、物理的なアクセス難。
 ナガランド州には、空港・鉄道駅が1つしかない。
 州の西端に位置するディマプールがそれなのだが、空路は近隣空港(アッサム州グワハティと西ベンガル州コルカタ)から小さなプロペラ飛行機が飛んでいるのみ。
 あとは、舗装率の高くない山間道路しかないのだ。


 ナガランド州が観光客で賑わう日は、まだまだ遠そうだ。


初体験! たった1人のための飛行機
 今回の私のアクセスルート。

 往路:デリー(5:30)→(Indigo便)→(7:50)グワハティ(9:45)→(Alliance Air便)→(10:35)ディマプール

 復路:ディマプール(12:25)→(Alliance Air便)→(14:25)コルカタ(19:10)→(Indigo便)→(21:00)デリー

 Indigoは、数年前に業界に入ってきた新鋭航空会社。
 早朝・夜間ダイヤによる空港使用料金節約、ニッチ路線展開による過当競争回避、ネット予約体制、全席エコノミー、機内食ナシ(サンドイッチ(75ルピー)・缶飲料(25ルピー)等は別途機内で購入可)と徹底した低コスト戦略で、今まで金銭的に飛行機に乗れなかった人たちも客層に取込んでいる。
 Alliance Airは、Indian Airの子会社で、ニッチ路線を受け持っている。元国営会社がコストカット目的で子会社化したということもあり、サービスは国内でも最低レベルだ。


 で、グワハティから乗ったAlliance AirのCD7751便。
 空港でチェックインした際、定刻通り出発する旨聞かされていたのだが、いつになっても掲示板に便名が出てこない。
 ようやく、構内アナウンスで便名を呼ばれ、セキュリティチェック。

 ゲート前で暫らく待っていると、軍人(グワハティ空港は軍港なので、軍人が警備・案内をやっていたりするのだ)がニコニコしながらやってきて、「ディマプールに行くのって、あなた?」と聞いてきた。
 そうですが・・・と答えると、全く予期せぬ答えが。

 「今日の乗客、あなただけだから☆」

 !!! なんと・・・恐るべき赤字路線だったのか。
 
e0074199_12581429.jpg ゲートから、10~20人の軍人が、色々話しかけながら、飛行機まで同道してくれる。
 ・・・はたから見たら、政治犯の移送みたいなんだろうな。

 彼らとても良い人たちで、離陸するときまでずっと手を振って送り出してくれた。
e0074199_12595768.jpg 当然、機内は関係者以外乗ってません。
 ・・・ガラ~ン。
e0074199_1333859.jpg 最前列は、変なシートアレンジ。
 いざ、好きな座席に座って、キャビンアテンダントの緊急時対応のインストラクションを受ける。
 客は私しかいないのだが、絶対にこちらを見ないキャビンアテンダント・・・誰も居ない機内後方を見ていた・・・誰に対して説明してるんでしょうか?
e0074199_1363979.jpg 殆どカラの機体は、発車してからものの数秒で離陸。

 45分のフライトだったが、一応機内食もサーブされる。
e0074199_1381536.jpg 定刻より少し遅れて、旅行客が1人もいないディマプール空港に到着。


見どころ① カチャリ王朝の遺跡
 ディマプールの見どころの1つは、中世にここを統治していたカチャリ族の遺跡。
 ディマプールの都市名も、この民族の言葉「ディ(川)」+「マ(大きな)」+「プール(町)」から来ている。川は、この一帯を流れるダンシリ(Dhansiri)川を指している。
 カチャリ族について、詳しいことはあまり分かっていないが、現在のアッサム州・ナガランド州・マニプール州あたりにいた民族のようだ。
e0074199_13282653.jpg 入口の城壁は後付けだろうか。
 入場料などは特に無く、あっさり入れる。

 中はだだっ広い野原になっており、奥方に遺跡が点在している。
 一部の資料では、男根を模した彫刻物との説明がある。
 タントリズムのような信仰があったのだろうか?
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e0074199_13485886.jpg 遺跡とは全く関係無いが、敷地内の池では、男の子たちが素手で魚を獲っていた。


見どころ② 土曜市場
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 この土曜市場が興味深かった。
 ナガランドの人たちは、その食生活が特徴的なことでも有名で、生きとし生けるもの全てを食の対象としている。
 売られる食材は実にバラエティに富んでおり、野菜など普通の食材のほかに、

e0074199_13532110.jpg カエルに・・・
e0074199_13533931.jpg 芋虫に・・・
e0074199_1354586.jpg 犬・・・。

 朝一番でここに来れば、レパードなどの珍食材なども売りに出ているのだそうだ。
 

オススメ度(100%個人主観)

    ★★★★★ ・・・ インドぢゃないインド(?)を体感出来る場所

所要観光時間

    1~2時間
by bharat | 2007-05-19 10:30 | インドぶらり旅
Hotel (13) Hotel Japfu Nagaland
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<名称>
 ホテル・ジャプフー Hotel Japfu

<住所>
 PR Hill, Kohima, Nagaland 797 001 INDIA

<電話番号>
 +91-370-224-3439

<宿泊料金>
 Rs1,4000-(約4,200円) / 日

<特徴>
e0074199_1542855.jpg ナガランド州の州都コヒマにあるホテル。
 州として観光客誘致を始めたばかりのこの州には、3つ星ホテルがここ1軒しかない。

 部屋は綺麗だが、湿気が溜まっている。
 コヒマの標高が高いので、仕方無いといえばそれまでなのだが・・・。
e0074199_15493330.jpg バスルームも綺麗。
 御湯もちゃんと出る。
 が、シャワー空間と洗面をしきる段差が無いので、シャワーを浴びるとバスルーム中水浸しになる。
e0074199_15452974.jpg ナガランドの御当地料理も食べられる。
 ほかにもインド料理・中華料理をサーブ出来るらしい。

by bharat | 2007-05-18 10:30 | ホテル情報