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インド人化完了☆  <インド滞在の総括レポート2-③>
<中央インド>
(12) マディヤ・プラデーシュ州---(訪問箇所:10)
e0074199_1105184.jpg 面積31万k㎡、人口6,000万人。
 後述のチャッティスガル州が2000年に分離した。
 インドの中心に位置し、鉱物資源に比較的恵まれているので、工業が発達している。インドールには、早くからブリジストンが進出、タイヤ生産工場を持っているし、ボーパールにも化学メーカーが多数進出している。
 その一方で、グワリオール、マーンドゥなどの中世の城塞遺跡、官能的な彫刻のあるカジュラホ、仏跡サーンチーなど、歴史的観光スポットも充実している。
 (旅行記)カジュラホグワリオールジャンシーオルチャボーパールライセンサーンチーウッジャインインドールマーンドゥ


(13) チャッティスガル州
 2000年、マディヤ・プラデーシュ州から分離して成立。
 近代化が遅れ、慢性的な水不足に悩まされ、ナクサライト(地域解放戦線)の活動など、州の発展を阻む要因も多いが、発電所が多く配置され、電力事業が州を支えている。
 また、アルミの一大産地としても今後の発展が見込まれる。
 地理的に山間部族が多く、州の人口の4割以上が指定カースト者である。


(14) ジャールカンド州
 面積8万k㎡、人口2,700万人。
 2000年に、ビハール州から独立して成立した州。
 インド全体の4割の鉱物資源を産出する特性を持ち、南東にあるジャムシェドプールはタタの本拠地である。
 産業別比率は、第1次:24%、第2次:35%、第3次:41%。


<東インド>
(15) ビハール州---(訪問箇所:4)
e0074199_1121862.jpg 面積9.4万k㎡、人口8,300万人。
 かつて仏教隆盛の中心となり歴史的にはインドで最も文化的だった州は、今や治安が悪く貧しい州の代名詞になっている。
 識字率は50%を切り、指定カースト者の割合は48%と高い。
 工業は殆ど根付いておらず、第2次産業比率は僅か3%で、完全に農業に依存している。が、最近はこれが思わぬ追い風になりつつあり、バイオエタノール燃料への活用が出来ないか、中央政府の支援による本格検討が始まっている。
 (旅行記)ナーランダーラージギルブッダガヤー(ボードガヤー)ガヤー


(16) オリッサ州---(訪問箇所:7)
e0074199_1133363.jpg 面積15.5万k㎡、人口3,600万人。
 鉱業が盛んで、ニッケルやクロムの採掘量がインドでNo.1である。
 海岸線が長く漁業も盛んで、内陸部では農業も栄えている。
 これだけ列挙すると大成功している州のように聞こえるが、州内GDPなどは決して右肩上がりということにはなっていない。農業も漁業も天候に左右され易く不安定で、旱魃やサイクロンの被害等に悩まされている。
 観光場所は多く、ヒンドゥー寺院が数百もあるブバネシュワル、自然信仰の跡を残すプリーやコナーラクなど見所は多い。
 (旅行記)ブバネシュワルダウリコナーラクピプリプリーウダヤギリ・カンダギリ石窟ラトナギリ、ウダヤギリ、ラリトギリ石窟


(17) 西ベンガル州---(訪問箇所:5)
e0074199_1144837.jpg 面積8.8万k㎡、人口8,000万人。
 東をバングラデシュと接するということで、イスラム教徒の比率が多い(25%)。
 州都はコルカタで人口は1,300万人。インドの東の玄関口となっているが、その発展スピードはムンバイやデリーより遅れを取っているイメージを受ける。
 昔から共産党が長期政権を握るこの州は、労働問題が起きるということで外資系企業から敬遠されてきたが、それが産業の近代化を遅らせてきた一因ともなっているようだ。但し、現在は三菱化学はじめ多くの外資企業が進出を始めており、州政府も誘致に積極的だ。
 また、南北に長いこの州は、北部の丘陵地域も含んでおり、世界的に有名な紅茶を産するダージリンも西ベンガル州にある。
 (旅行記)コルカタシリグリダージリングームカリンポン




  レポート2-④に続く。
by bharat | 2008-01-04 10:30 | ふと思うこと
インド人化完了☆  <インド滞在の総括レポート2-②>
<西インド>
(8) ラージャスターン州---(訪問箇所:10)
e0074199_1824388.jpg 面積34万k㎡、人口5650万人。
 西をパキスタンに接する。多くの地域は砂漠・土漠となっており水不足が慢性化している。タール砂漠やサム砂丘があるのもこの州だ。ラージプート民族というヒンドゥー戦闘民族が小国の王を名乗り、覇権を争った地であり、州内に様々な特徴的な建築物などが残っている。
 大理石、砂岩石などの石切が盛んで、これに関連してセメント事業も活発。
 砂漠の町ツアーなどの観光業も盛んで、デリーに程近いジャイプールは、一大観光名所だ。
 (旅行記)ジャイプールジャイサルメールジョードプルランタンボールチットールガルウダイプールケオラデオ・ガナニムラナタタルプールアルワール


(9) グジャラート州---(訪問箇所:7)
e0074199_18275293.jpg 面積20万k㎡、人口5000万人。
 インドの西端に位置し、近年は強力な州首相の手腕のもとで港湾の近代化、外資メーカー企業の誘致が進んでいる。
 自動車関連産業、エンジニアリング産業は内陸部で活発化し、化学産業は沿岸部に大コンビナートを形成し始めている。州民の気質が温和で、労働争議が少ないのも、外資企業進出の御後押しになっているようだ。
 一方、グジャラートの出身地ということで、保守的な要素も併せ持っており、インド全土では唯一酒の販売・摂取が禁止されている地域である。グローバル化に伴い、外国人のパスポート掲示を条件に隠れたところでの飲酒を認めるという弾力措置は採られているが、酒飲みの人には辛い州である。
 (旅行記)アーメダバードカンドラヴァドーダラ(バローダ)チャンパーネルバーヴナガルパリタナロータール


(10) マハラシュトラ州---(訪問箇所:9)
e0074199_1849581.jpg 面積30万k㎡、人口1億人。
 インド随一の商業都市であるムンバイを州都とする。
 産業別分布は、第3次:67%、第2次:20%、第1次:13%となっており、約9割が農業以外に従事しているということになる。
 インドの株式市場Sensexがムンバイにあり、金融の中心地でもある。少し内陸に行ったプネーは産学IT都市として発展している。
 史跡にも恵まれており、観光場所としても栄えている。
 (旅行記)アウランガバードアジャンタ石窟群エローラ石窟群ムンバイエレファンタナグプールラームテークロナウラと周辺石窟群プネー

(11) ゴア州
 面積3,700k㎡、人口135万人、1日あればぐるっと観光出来る小さな州である。
 西側の海岸地帯ということで、中東や欧州からの客を見込んだビーチリゾートホテルがある。
 また、中小規模の造船所が立ち並ぶ面も併せ持っている。
 キリスト教徒の人口比が27%というのも特徴的。





 レポート2-③に続く。
by bharat | 2008-01-03 10:30 | ふと思うこと
インド人化完了☆  <インド滞在の総括レポート2-①>
2. インド各地を訪れて感じたこと

 先のレポートで述べた3要素、すなわちインドの「地理」・「歴史」・「文化および宗教」を理解して、初めて市内や国内・周辺国の各所を旅したときにその地域のことを深く理解することが出来る。

 インド滞在の2年の間、私は出来るだけ自分の目で確認しながらインドの実態に関する知見を深めようと試みた。
 毎週末の殆どを、インド国内および周辺国の旅行に充てた。
 周遊箇所は、最終的にインド国内105箇所、周辺国21箇所に及んだ。

<インド首都圏・北インド>
(1) デリー州---(訪問箇所:1)
e0074199_15483722.jpg 面積1,483k㎡で伊豆半島や静岡市とほぼ同じくらいの大きさ。
 人口は約1,400万人。
 言わずと知れたインドの首都がある場所である。
 よくインドの首都を「ニューデリー」と記載している資料を目にするが、厳密に言えばこれは正しくない。ニューデリーは、飽く迄デリーの中の特定の地区を指す名称であって、総称ではない。デリーは、ニューデリー地区・オールドデリー地区・デリーカントンメント地区に大別されている。
 使用される言語は、ヒンディー語・パンジャビ語・ウルドゥー語など(後者2言語はヒンディー語に似ている)で、英語人口が多いのも特徴的。
 宗教人口はシーク教徒が4%と多い。市内でよくターバンの人たちを見かけるのもうなずける。
 政治的中心地で、大統領官邸、国会議事堂はじめ、各省庁の事務所がある。
 商業的にも中心地で、電力やガス、水道の各インフラの本部(公社)などが配置されている。
 産業別では、第1次:1%、第2次:9%、第3次:90%となっており、圧倒的に非製造業が発展している。
 テレビ普及率は85%、電力普及率は99%、電話普及率は53%。
 (旅行記)デリー


(2) ウッタル・プラデーシュ州---(訪問箇所:10)
e0074199_15504446.jpg デリーの東側を接する大きな州で、面積は約24万k㎡、人口1.7億人。
 インド全土でもっとも人口の多い州の1つで、票田として最も政治に影響力のある州でもある。州都ラクナウは政治都市として栄えているが、州内格差が急速に広がっていることが問題視されている。西部は、デリーの影響を受けて急速に近代化し、本田技研・ヤマハ発動機など日系企業も多く進出する一方、東部は未だ農耕・牧畜型生活様式のままである(産業別では、第1次:35%、第2次:13%、第3次:52%)。テレビ普及率は30%、電力普及率は8%、電話普及率は35%、州内識字率も56%と意外に低く出ているのも、東部の数字が低いことに起因していると推測される。
 ガンジス川の沐浴の映像で登場するヴァラナシも、この州にある。
 (旅行記)アグラメーラトヴァラナシサールナートファテープル・シークリジョーンプルラクナウマトゥラーヴリンダーバンアラハバード


(3) ハリヤナ州---(訪問箇所:3)
e0074199_16232898.jpg デリー西側をぐるりと囲むように立地するこの州は、面積4.4万k㎡、人口約2,100万人。
 1966年に、後述するパンジャブ州から分割されて成立、州都はチャンディーガルでパンジャブ州都を兼ねている。
 デリーに接するグルガオンは、デリーとともに統一地域圏(NCR:National Capital Region)に指定され、急激な発展を遂げている。この近隣に工場を置くスズキ自動車や本田2輪が第2次産業を牽引、州北西部には一大穀倉地帯も広がっており、非常に恵まれた州と言える。
 (旅行記)パーニーパットクルクシェートラスーラジクンド


(4) パンジャブ州---(訪問箇所:1)
e0074199_17303126.jpg 面積5万k㎡、人口2,400万人。
 この州はあらゆる意味で非常に特徴的な州だ。まず、シーク教徒の占める割合が60%と非常に高く、州内のアムリッツァルは彼らの総本山だ。そして、重労働を厭わない彼らの労働気質と、1970年代の緑の革命によって農業が急速に近代化・拡大、現在ではインドの食物庫と言われるほどだ。市中に出回る小麦の70%、米の50%はこの州からだと言われている。
 農業従事者は、州内全人口の約36%に上る。
 (旅行記)アムリッツァル


(5) ジャンムー・カシミール州---(訪問箇所:4)
e0074199_17293759.jpg 面積22万k㎡に人口1,000万人、人口密度は僅か46人/k㎡。
 近年は、紛争地域の代名詞という、あまり良くないイメージがつきまとう地域だが、元々は自然豊かで、インド映画のロケは殆どこの地方で行われていたほど。
 1948年、1965年、2回のインド・パキスタン紛争では、州内の住民が殺しあうという事態になってしまった。元々は、インド・パキスタンの分離独立時に、この一帯を支配していた藩王が、どちらの国の支配下に入るかということが原因だ。約7割の州民がイスラム教徒なのだが、藩王はヒンドゥー教徒。結局藩王はインドの所属になることを決めたのだが、これにパキスタン政府が猛反発、州民を喚起して軍隊、ゲリラ部隊、周辺国入り乱れての紛争になってしまった。その後、パキスタンが勝手に一部領土を中国に割譲する等混乱を極めるが、現在は停戦協定線を決め、一応平穏が保たれている。かつての主要産業だった観光業も、徐々に活発化してきている。
 尚、第3回紛争の主な舞台は、東パキスタン(現バングラデシュ)であり、カシミールとはあまり関係ない。
e0074199_1710161.jpg 現在も、州の産業構造は大幅な変化は無く、農業と観光業が主体。なかでも、良質な羊毛でつくるパシュミナ製品や、高度な技術を誇るカシミール絨毯、精緻な彫刻が魅力のくるみ製家具など、クラフトマンシップを駆使した産業はインドの中にあって非常に特徴的。余談だが、インドで大変盛んなクリケットで使用されるバットは、一流品は殆どこのカシミール産である。
 尚、観光箇所としては、首都スリナガルの周辺で景色を楽しみながら湖畔でゆっくりするか、ラダック・レ-などのヒマラヤ地方などのチベット密教系の異文化を体験するかが有名。
 (旅行記)レーティクセ・ヘミス(ラダック東部)ラマユル・アルチ(ラダック西部)ビマ(ベマ)


(6) ヒマーチャル・プラデーシュ州---(訪問箇所:2)
e0074199_17194048.jpg 面積5.6万k㎡、人口600万人。
 英国庶民地時代より避暑地として栄え、当時、シムラーは夏季の英国本拠地として栄えた。
 今でも、避暑やスキーを謳い文句として観光に力を入れている。
 また、東を中国チベット自治区に面しており、中国のチベット侵攻の際には、チベット王ダライ・ラマは領民たちとヒマラヤを越えてインド領内に庇護を求めてきた。現在も、州内北西部のダラムサラーには、チベット亡命政府が置かれている。
 (旅行記)ダラムサラーシムラー


(7) ウッタラーンチャル(ウッタルカンド)州---(訪問箇所:3)
e0074199_1722914.jpg 面積5.3万k㎡、人口850万人。
 デリーの北東にあり、東側をネパール、北側中国に面している。
 こちらもヒマーチャル・プラデーシュ州同様に、避暑地として観光客を誘致している。
 一方で、聖川ガンジスの源流があり、多くの敬虔なヒンドゥー教徒が集まる巡礼地でもある。その1つであるリシケシュには、ビートルズがヨガを習いに訪れたことがあり、欧米人にも大変人気のある観光スポットになっている。
 (旅行記)ムスーリリシケシュハリドワール



 レポート2-②に続く。
by bharat | 2008-01-02 10:30 | ふと思うこと
インド人化完了☆  <インド滞在の総括レポート1>
 2007年6月25日、僕は日本に帰国した。

 2年間のインド赴任を終えた。
 インドの言語・歴史・地理・文化・宗教観を探求する日々に、一旦ピリオドを打った。

1. 2年間を振り返って
 2005年6月26日に、生まれて初めてインドの地を踏んだ。
 
 生まれてこのかた、インドという国と関わりを持つなど、全く予想だにしていなかった。
 自分として新たなキャリアを築きたいと思っていた矢先、会社の社内公募があったので、迷わず応募した。
 駐在員としてではなく、学習・研究目的でインドへ。
 それは、僕の会社同様にも僕にも大きなチャレンジだったと思う。

 2年(=24ヶ月)という限られた時間を、少しでも有効に使おうと考え、以下のような手順でインドを理解しようと考えた。

(1) インドの地理を把握する 
e0074199_14142560.jpg 世界第7位の国土面積を誇るインドだが、その全貌を把握している人は意外に少ない。
e0074199_1416015.jpg アッサムやナガランドがある北東地域(右上写真)や、殆ど東南アジア各国と同じ場所にあるアンダマン・ニコバル諸島(右写真)、今尚調停ラインの残るカシミール地方(右下写真)など、その多様性はインドという国そのものを体現している。
e0074199_14175678.jpg そもそもインドがいくつの行政区分で構成されているかすら、知らなかった。
 インドには「州」という行政区分と、「連邦直轄領」という行政区分が存在する。
 年々変化を続けているが、現在は29の州と6つの直轄領の合計35の行政区分によって構成されている。

 デリーは、最近まで直轄領だったが、州になった。
 また、デリーおよびその周辺(ウッタル・プラデーシュ州西部・ハリヤナ州南東部)をNCR(National Capital Region)という別称で呼ぶこともある。

 各州の詳細については、後述することにする。

(2) インドの歴史を把握する 
 日本同様、インドもまた数千年の歴史を有し、その記録が残存する世界に稀有な国である。
 その歴史を正確に把握することで、現在のインドの背景を理解しようとした。

 まずてっとり早いのが、書籍やインターネットを通じて情報を収集することだ。
 中学・高校で学ぶ世界史レベルの情報なら、簡単に収集できた。
 ただ、体系的に記載された文献は少なく、特に中世の南北インドの構図や、植民地時代の描写については専門書でも説明不足なものが少なくなく、理解に苦しんだ。
 この2年間で、インドをビジネスの切口から書いた書籍は随分と増えた。
 今でこそ注目を浴びてアマゾンなどで「インド」と検索すると数千件ヒットするが、2005年6月当時は100件前後だったと思う。しかもその殆どがバックパッカー旅行記や難解な宗教書のようなもの。

 インドに着いてからは、大学の先生や友人からの情報収集も随分と行った。
 が、結論から言えば、いずれも正確な情報を得るには不十分だった。
 大学でインド史を勉強する機会もあったが古い情報だったし、インド人の友人たちの情報も結構曖昧だった。
 経済学や神話などには精通している彼らも、自国の歴史のこととなると記憶が曖昧なようだ・・・というか関心自体が薄い気がする。

(3) インドの文化・宗教観への理解を試みる 
 インドという国を少しでも正確に理解する上で、このポイントが最も重要だと考え、実に沢山の本を読み、またインド人たちと議論した。
 インドにおける宗教の多様性と根深さは世界的にも群を抜いており、我々が世界史で習ったカースト制や一般的な宗教分布の数字だけでは、その把握などおぼつかない。
 我々が習ったカーストは、上から順番にバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、スードラの4つだが、これは実は正確ではない。
 この4つの大分類はヴァルナと呼ばれ、その夫々に幾多のカーストが存在している。
 数千年前から存在する階級制度と、現代社会の資本至上主義が織り成す混沌と意外な事実。これは現地の様々な局面で目の当たりにした。

<意外な事実①> 籍を置いた大学の成績発表がカースト別に掲示
 あとになって分かったのだが、これは「留保制度」と呼ばれる下級カースト者への恩恵措置のためにカーストを明かして成績発表しているのだった。
 詳細記事はコチラ。
 カースト カースト カースト(2005年9月1日)

<意外な事実②> マハトマ・ガンジーは、カースト制度擁護者だった
 カースト制度について調べるうち、ガンジーはバラモン階級の出で、インド独立に際してもカースト制度を擁護する立場だったことが分かった。
e0074199_1422867.jpg 我々を含め、外国人が習う世界の歴史では、ガンジーだけが英国と戦ったように記憶しているが、実際にはスバース・チャンドラ・ボース、ビハリ・ボース、バガット・シンらの過激派やカースト制度根絶を訴えたインド初代法務大臣アンベードカルらがインド民衆を引っ張った。ガンジーが殊更に英雄としてPRされたのは、彼が高カースト者から構成される政治政党(国民会議派)に祭り上げられていたことなどによるものだ。そう考えると、現在のインドルピー紙幣が全てガンジーの顔写真となっているのも、何か勘繰ってしまうものがある。
 詳細記事はコチラ。
 カースト カースト カースト(2005年9月1日)
 ラクナウでアンベードカルについて考える(2005年12月20日)

<意外な事実③> カースト差別は厳然として残存している
 インド憲法制定と同時に、不可触賤民(アンタッチャブル)という最下層カースト(正確にはカーストにすら入っていない)への差別は法的に廃絶された。
 また、下層カースト者を票田とする政治政党も数多く現れ、彼らに配慮した政治が行われるようになってきた。法的に下層カースト者を村長に任命する制度や、無償・安価で教育や医療を受けられる仕組み作りも整備されつつある。
 しかし、今尚カースト制度は様々な形でインドに影響を与え続けている。

 ここで気をつけたいのが、我々日本人が歴史上上記のような差別問題から無縁だったと考える人が多いことだ・・・かく言う私も近しいインド人に指摘されるまでその1人だったが。
 日本も、単一民族国家では無いし、少数民族や在日日系外国人への軽視政策を過去行ったことがあることを忘れてはならない。
 それを忘れずに意識してもなお、インドのカースト制度が社会に与える影響は比較にならない程大きいということだ。

e0074199_14233917.jpg 新聞の結婚相手募集欄はカースト別で記載され、 デリーの隣町でもカーストを巡る暴動が起きる。
 閉鎖的な農村部では、下級カースト者がヒンドゥー教から仏教に改宗しても以前の迫害から逃れられない実態がある。


関連記事はコチラ。
メーラトでインド行政の陰を知る(2005年9月18日)
インドの農村行政の実態(2005年10月31日)
ヴァラナシでのホームステイ(2006年1月10日)
州境の村クッティーナ(2006年1月17日)
逃れられぬカースト(2006年11月23日)
指定カースト者による暴動勃発(2006年12月2日)
デリー周辺大暴動の実態(2007年6月5日)

<意外な事実④> ヒンドゥー教が多数を占めるが、独占的ではない
 また、インド=ヒンドゥー教一色と思われがちだが、決してそんなことはない。
 インド政府が直近に行った2001年国勢調査資料(Census of India 2001)によれば、総人口および宗教分布は以下の通りとなっている。

宗教 / 人口 / 割合
全人口  / 10.28億人 / 100%
ヒンドゥー教 / 8.28億人 / 80.5%
イスラム教 / 1.38億人 / 13.4%
キリスト教 / 0.24億人 / 2.3%
シーク教 / 0.19億人 / 1.9%
仏教徒 / 0.8億人 / 0.8%
ジャイナ教 / 0.4億人 / 0.4%
その他 / 0.7億人 / 0.7%

e0074199_13322815.jpg 仏陀(紀元前563~483)が興した仏教は、その後何度も強大な王朝に庇護され、かつ密教的要素の強かった上座部(小乗)仏教から大乗仏教になって一般民衆を大いに取り込んだ。が、その後中世にはすっかり衰え、20世紀に入って前述したアンベードカルが死の直前に改宗する等、近年再び盛上りを見せている。
e0074199_13334258.jpg イスラム教は、人口比率で約13%と言われている。中世~近世期にインドを支配した奴隷王朝やムガル帝国などがイスラム教国家だったこともあり、現在も数多くのイスラム建築の遺構を目にすることが出来るし、未だに街中にモスク(礼拝堂)を確認できる。
e0074199_13391652.jpg また、マジョリティを握っているヒンドゥー教徒が他教徒を圧迫しているということも無い。
 その証拠に、現在のインド首相マンモハン・シン(写真右)はシーク教徒(全人口比1.9%)だし、大統領のカラム(写真左)はイスラム教徒(全人口比13.4%)と、宗教的なマイノリティな教徒たちが政治のトップにいる。
e0074199_1563689.jpg また、インド最大とも言われるタタ財閥のドン、ラタン・タタおよびその一族はゾロアスター教であり、宗教人口的には極めて少数派である。タタをはじめとするゾロアスター教徒たちは、8世紀頃にペルシャ地域から今のムンバイのあたりに移ってきて、商売活動を始めたという。写真のタタ財閥5代目代表(持株会社であるタタ・サンズの会長職)であるラタン・タタ率いるタタ・グループは、構成企業93社、総売上2.4兆円、総従業員数22万人という巨大コングロマリットを形成しており、名実ともにインド商業界のトップである。
 インドの大衆が、宗教の種類を問わず、公正な判断を下している好例といえるのではないだろうか。




 総括レポート②に続く。
by bharat | 2008-01-01 10:30 | ふと思うこと
物乞い界もサラリーマン社会
 インドに長く居ると(といっても2年程だが)、いろんなところに人脈が出来るものである。

 私には、とても仲の良いストリートチャイルドがいる。
 ストリートチャイルドと何でも横文字にすれば聞こえが良いが、要するに物乞いである。
e0074199_2262426.jpg

 彼女の名前はシータという。
 ヒンドゥーの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場するヒロインと同じ崇高な名前だ。
 年齢を聞いたところ、よく分からないと言われた。


 ここで、インドの物乞い事情(?)について、私の知る範囲でちょっと説明することにする。

 インド社会では、様々な種類の物乞いがおり、特に人口の流入が激しいデリーなどの都市部においては、非常に雑多な状態になっている。

 まず、カーストまたはこれに類する事情により、生まれながらに物乞いをしている人たち。
 彼らは、都市部・農村部に限らず一家郎党物乞いを生業としている。
 彼らの中には、細々と仕事をしている者もいる。
 新聞売りや雑貨を売り歩く者たちはこの分類に入る。

 続いて、失業などして物乞いに身を落としてしまった人たち。
 特に、都市部に多い印象がある。
 一攫千金を夢見て上京したもののうまく行かず、そのまま居ついてしまったのか・・・。
 デリーなどに居るのに、北インドの顔立ちでない物乞いたちは、この部類に入ると推測される。

 更には、親・家族に捨てられたあるいは家出して物乞いをしている子供たちもいる。
 先天性障害を持っているために産後すぐに捨てられてしまった悲しい話や、親の虐待に耐え兼ねて家出したものの行く場所が無くストリートチャイルド化した話は、しばしば聞くことがある。
 (このテーマについてはコチラでも少し触れたので参照して欲しい)




 私の友達のシータは、生い立ちについてはあまり多くを語ってくれなかったが、彼女は交差点で新聞を売って歩いている、職業を持った物乞いである。

 彼女の営業センスは非常に冴えており、まず信号待ちの瞬間に、金払いの良さそうな人を見分ける。
 ガイジンかどうか、高級車に乗っているか、など彼女なりの判断基準があるのだろう。

 更に彼女は、一旦顔見知りになった客に対して、ツケ払いを許してくれるのである。
 新聞は1部2ルピー(約6円)なのだが、月曜日から木曜日までは新聞だけ渡して金曜日に纏めて10ルピー渡せば良いのである。
 客を記憶するのは当然だが、大袈裟に言うと債権回収リスク管理の能力を持っているということになる。
 私も、一応彼女の中ではこのカテゴリに入るようで、毎回ツケ払いをしていた。
 彼女からしてみれば、金曜日、私がこの交差点を通らなかったら回収遅延になる訳だが、翌週きちんと回収に来る。



 そんな商売センス・営業センスの光るシータなのだが、彼女がどんな組織に所属しているのか、というのがまた大変興味深い。
 毎日その日の新聞を売り歩く訳なので、当然元締めがいる訳だが、その組織がどうやら会社のような組織になっているようなのだ。

 2年前、私がシータに会ったときには、彼女はまだ新米社員だった。
 だが、今や彼女は年少の部下を2名引き連れ、腕には赤子まで担いでいる。
 差し詰め、係長といったところか。

 交差点で車が信号待ちした瞬間、彼女は部下2名にどの車を攻めたら良いかを矢継ぎ早に指示する。
 その後、彼女は固定客を丁寧に挨拶して回るのだ。

 実に要領の良い営業方法である。



 彼女が「部長」くらいに昇進するまで見守っていきたいものだ。




※差別用語の扱いに敏感な昨今の風潮だが、今回あえて「物乞い」という表現を使った。
by bharat | 2007-07-01 10:30 | ふと思うこと
第100回旅行は、インドの軽井沢シムラー
 インド国内も、今回で100箇所目。
 今回は、英国植民地時代の避暑地として高名なシムラー(Shimla)。
e0074199_16443455.jpg



暑い夏を凌ぐ夏季限定の都
e0074199_211562.jpg 1814~16年のゴルカ戦争(ネパールと英国の戦争、詳細はコチラ参照)ののち、英国はこのシムラー丘陵地帯の存在を知るようになった。
 当時、英領インドの首都はコルカタにあったが、標高2,130mで夏季に程良い気温を保持するシムラーを、英領インドは夏季の首都に定めた(1864年)。

e0074199_2112351.jpg コルカタあるいはデリーからシムラーまでのにもつの大量輸送は困難を極めたが、それも1903年にシムラー~カールカ(Kalka、シムラーから100km)間、1906年にカールカ~デリー間で鉄道が開通すると解消された。
 この2路線は現在も現役で、、前者はトイ・トレイン(狭軌の登山鉄道、同タイプのダージリン・ヒマラヤ鉄道は世界遺産登録されている)、後者はカールカ・シャタブディ特急が毎日運行されている(電車の様子は後述)。

 その後、シムラーは旧パンジャブ州、次いで1971年からはヒマーチャル・プラデシュ州の州都となった。

 その避暑地としての歴史の古さから、今でもシムラーは数ある避暑地ヒル・ステーション(Hill Station)の代表としてそのステータスを保っている。


英国建築の雰囲気に和む
 避暑地なので、あまり観光場所は無いのだが、英国植民地時代に建てられた洋館が立並ぶ街並みは独特な雰囲気を出している。
 
e0074199_2030629.jpg これは、市役所。
 1888年に建てられた洋館だが、今尚現役。
e0074199_20401896.jpg その隣にも立派な建物があるが、これは現在警察署として機能している。


e0074199_2041649.jpge0074199_20412117.jpg これは、教会と図書館。
 夫々1844年、20世紀初頭に建てられた。


e0074199_20433492.jpg その他にも、至るところに洋館が立並んでいる。



改善の余地は無いのか・・・
e0074199_20475455.jpg 但し、これらの雰囲気をぶち壊して余りあるのが、この町全体の機能不全状態。
 まず、丘陵地にへばりつくように街並みが形成されているため、細長い街道や歩道がハイシーズンの人口集中に耐えられない。
e0074199_20484057.jpg メインの広場(スキャンダル・ポイントと呼ばれている)へのアクセスルートは限られており、最もポピュラーなのがこのエレベーター。
 なんと小型のものが2基しかない。
 当然滅茶苦茶並ばないと乗れない。
 加えて、エレベータには8人乗りと書いてあるのだが、毎回10人以上詰めて乗込む・・・いつ落下事故が起きてもおかしくない。


 車は渋滞するし、ゴミはそこら中に散乱しているし・・・これで毎年観光客が殺到し続けるのがナゾである。
 少なくとも、私は相当不快な思いをした。
 唯一避暑地を体感して落ち着いた雰囲気になったのは、ホテルに居たときだけだった。

 州政府・観光局など、当事者はもう少しこの惨状を改善して欲しいものである。


アクセス方法
e0074199_2152286.jpg シムラーへは、飛行機か鉄道か車で行くことになる。
 飛行機は大変便利だが、月・水・金・日と隔日しかフライトが無い。
 今回、往路はこの空路を使った(Air Deccan便)。



 鉄道は、上述したように特急列車(デリー⇔カールカ)+トイ・トレイン(カールカ⇔シムラー)と繋ぐことになる。
 今回の復路は、車+特急列車を使った。

e0074199_218373.jpg これがトイ・トレイン。
 かわいいディーゼル機関が客車を引っ張る。


 特急列車カールカ・シャタブディは、インド随一のクオリティ。
 座席は綺麗、夕食も美味だった。
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オススメ度(100%個人主観)

     ★☆☆☆☆ ・・・ 避暑地なら、もう少し落着きたい

所要観光時間

     3時間
by bharat | 2007-06-11 10:30 | インドぶらり旅
第99回旅行は、文字の無い村ビマ(ベマ)
 レーから北西に進み、ビマ(ベマ)(Bema)というとても小さな集落に到着する。

実質的インド最北端の村
e0074199_17225964.jpg もう1つ丘を越えれば、パキスタンとの停戦協定ラインというところに位置するこの村。
 村落の殆どは山の上にあり、店が数軒並ぶ小さなマーケットだけが平地の幹線道路沿いにある。
 幹線道路を更に小1時間行くと、インド陸軍の基地があるらしい。


e0074199_17383082.jpg 因みに、このあたりでは、電話の電波が全く来ていない。
 唯一の通信手段は、軍事基地に申請を上げて許可を貰い、衛星通信を使って電話をすること。

 この子供も、このオモチャが何なのか、分かっていないに違いない。



ナゾの民族ブロクパ
e0074199_17291350.jpg ここに住む民族は、未だにナゾに包まれている。

 民族の名は、ブロクパ(Brokpa)。
 ラダック系ではなく、アフガニスタン地域から来たと推測されている。
e0074199_17311528.jpg この民族の特徴として、まず挙げられるのは文字が無いということ。
 コミュニケーション手段が口頭伝承しかない。

 従い、上述した「Brokpa」も、村民に聞いたものを英語表記したに過ぎない。
e0074199_17333657.jpg 文化。風俗面でも特筆すべき点が多い。
 異民族との交配を原則的にしないので、殆どが近親交配になっており、出生率の低さ・奇形児が多いことが問題視されている。
 入浴の文化は無く、草で体をこすって垢を落とす。

 男女問わず、頭に花を付ける。



 殆どの村民が居住する山の上に行って見た。
 部落長の家に御邪魔する。
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e0074199_1741726.jpg 家は2階建。
 2階部分にストーブがあり、ここが居間兼キッチン兼寝室になっている。
e0074199_1742867.jpg 1階部分は、家畜、飼料、食料や農耕具の保管スペースになっている。
 その一角に、このような石が埋まっていた。
 彼らはこれを守護石と呼んでおり、このあたりには仏教とはまた違う、原始的な自然信仰が未だ信じられていることが分かる。



 その晩、彼らが山から下りてきて、民族舞踊を披露してくれた。
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 この踊りというのが、この上なくグダグダなのだ。
 男性3名、女性3名の6名で行われたこの舞踊。
 まず、マスターしているのが先頭の部落長のオジイチャンだけ。
 彼が歌って踊るのを、時間差で他の5人が真似るといった感じで、踊りは進む。
 歌のペースは一定ではなく、歌の切れ間で突然手に持った布をクルクル回す。
 6名の舞踊団は、エンドレスにキャンプファイアーの周りをゆっくり回り、オジイチャンが方向転換すると、後続が方向転換に間に合わずぶつかる。

 ・・・この伝統舞踊、オジイチャンの代で終焉を迎えるのでなかろうか・・・?


オススメ度(100%個人主観)

    ★★★★☆ ・・・ 文化の多様性を実感

所要観光時間

    2時間
by bharat | 2007-06-10 10:30 | インドぶらり旅
デリー周辺大暴動の実態
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 この写真。
 つい数日前、私の友人が通勤途中に撮ったものである・・・。

 日本のメディアで如何程の騒ぎになったのかは分からないが、こちらデリーでは5月末から6月初旬は、この話題で騒然としていた。

 一体何が起こったというのか・・・。

2007年5月29日 部族蜂起・・・
 この日、ラージャスターン州の2つの地区で、グジャー(Gujjar、ヴァイシャ(商人)カーストの下位に位置するカースト)階級の民衆がデモを敢行。
 道路の封鎖などを巡って警官隊と衝突、同日だけで16名が死亡する惨事に発展した。

 デモの背景には、カースト制度と物質的近代社会が交錯する複雑な事情があった。
 グジャー階級は、上述したようにヴァイシャカーストにあたる。
 元々遊牧民を指すこのカーストの者たちは、商人とはいっても経済的には殆ど基盤を持たず、その下の指定カースト(スードラや旧不可触民などのカースト+指定部族)の者よりも貧しい生活を強いられている者も少なくない。
 インド1年滞在時のレポートでも記したが、指定カースト者には大学入学・就職・政治的要職に就くなどの際に様々な恩恵が付与されている(留保制度)。
 ラージャスターン州のグジャー階級者は、前回の州選挙の際、カーストの名にこだわるより実利を選択し、自らを下位カースト同様に扱う様求めていた。これを票獲得の好機と見た政党BJP党がこれを公約として見事州の政権政党になった。

 結局選挙後3年経った今も、公約は果たされず、これに業を煮やした一部の過激派が実力行動に出たというわけだ。

 デモ・道路封鎖の舞台が、デリージャイプールとを結ぶ大動脈国道8号線であったことから、騒動は想像以上に大規模化。
 31日には新たに6名が死亡した。


日系メーカー等にも大きな影響
 騒ぎは、隣州のハリヤナやウッタル・プラデシュにも飛び火。
 週をはさんで6月4日(月)には、ハリヤナ州グルガオン地区およびウッタル・プラデシュ州ノイダ地区に数多く入居している日系企業が事務所・工場を一時閉鎖するという事態にまで発展。

 4日の夕方になって、グジャー階級者のリーダー格とラージャスターン州政府との間で停戦協定が締結され、事態は一旦は収束を迎えた。

 この間の死者は、計30名にのぼった・・・。


指定カースト 本音と建前
 この騒ぎ、3ヵ月後に特別委員会が作成するグジャー階級を指定カーストに編入するかを報告書に纏め、審議されることになっている。
 その時点で編入が否認されれば再びグジャー階級者の反発が、是認されれば既得権益を保有している現指定カースト者からの反抗が出るのは必至で、9月くらいにまたデリー周辺で騒ぎが起きる可能性を残している。

 今回の一連の事件で、非常に興味深かったのは、急速な物質社会化に伴うインドの中位~下位カースト者の心理の変化だ。
 インド独立期には、ガンディーは下位カースト者を神の子「ハリジャン」と呼び、インド人民の一員であることを再認識させ、独立のパワーに転用した。
 独立直後の混乱期、アンベードカルは下位カースト者の悲惨な事情を糾弾し、ついには他宗教への改宗を行い、これを薦めた。

 歴史を紐解くと、指定カーストの考え方は、1935年に制定されたインド統治法に遡ると言われている。
 この法律自体は、英国政府が下位カースト者・山間部族らに特別に議席を与えたものに過ぎなかった。
 が、インド憲法制定時には、ガンディーや初代法務大臣となったアンベードカルたちによって、指定カースト・指定部族に一定の恩恵が付与されていった。これが、現在の留保制度の始まり。

 この解釈が、指定カースト以外にも拡がっていったのが、1993年。指定カースト・部族には厳密には該当しないものの、経済的に厳しい状況に置かれている人たちをOBC(Other Backward Classes)と呼び、彼らにも留保枠を新設した。

 一部の過激な知識層やヒンドゥー教至上主義者たちの強烈な反発に会いながらも、この制度はインド全土に広がっていった。


 時代は移り代わり、インドは只今年率8~9%の超スピード成長中。
 外資もドンドン流入、急速な物質社会への転換期を迎えている。
 経済的成長の牽引役は一部の富裕層と言われ、大部分の下層階級はこの成長を実感出来る環境には無い。
 そんな環境下、彼らが最近考えること。
 それは・・・

   <カースト制度で上位にいるより、経済的恩恵を取った方が良い>

ということだ。

 今回のグジャー階級者の行動は、正にこの真理に則っている。



 急速な近代化・物質化の波に飲まれるインド。
 カースト制度とどう渡りあっていくのだろうか・・・?
by bharat | 2007-06-05 10:30 | ふと思うこと
正直なところ、いったい仏教徒は何人いるのか?
 5月28日のThe Hindu紙にこんな記事があった。

 「One lakh people convert to Buddhism」
 (Lakhはインドの数字の数え方で10万の意味)

 10万人の人民が仏教に改宗した、という記事だ。

 記事によると、5月27日ムンバイで開催された、アンベードカル(同氏についてはラクナウ旅行記を参照)改宗50周年記念式典が開催され、その式典の中で、ダリット(最下層カースト者)や部族カースト者たち約10万人が仏教に改宗したという。



 アンベードカルが仏教に改宗し、今やインド仏教の本拠地ともなっているに行ったときの仏教祭典(仏陀生誕2550年+アンベードカル没後50周年)の物凄い盛上がりを体感して思ったのだが、単純な疑問として、

  「本当のところ、インドにはいったい何人の仏教徒がいるのか?」

を考えずにはいられない。



 インド政府が発表している最新2001年の国勢調査によれば、仏教徒は796万人。
 インド全土の人口10.3億人の僅か0.8%という割合に過ぎない。
 過去40年間で、イスラム教が微増した以外は、殆どの宗教分布が変わっていない。
 ・・・何たる摩訶不思議。
 私の周りにも、自分の世代あるいは親の世代にヒンドゥ教から他宗教に改宗したと話が結構あるので、上記の数字はどうも俄かには信じられない。


 私個人の感想としては、数千万はいると思うのだが・・・次回2011年の国勢調査では、精緻な調査を切に望む。
by bharat | 2007-06-01 10:30 | ふと思うこと
第95回旅行は、ポートブレア(アンダマン&ニコバル諸島)
 インドの中で、一番辺鄙なところにある場所といえば、間違い無くココだろう。
 大陸から遥か東に離れたアンダマン・ニコバル諸島が今回の旅行先だ。

インド屈指のリゾート地?
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 地図で見れば分かる通り、インドの連邦直轄地なのだが、インドの東よいうよりミャンマーの南と言った方がしっくりくるくらい、東にはずれたところに位置している。

 この地域の歴史については、コチラに詳しく書いたので参照して欲しい。

 
 この諸島で玄関口となっているのが、アンダマン諸島にあるポートブレア(Port Blair)。
 1789年、英国の東インド会社のボンベイ海軍大佐アーキバルド・ブレア(Archibald Blair)がここを占領し、船舶の停泊場として使い始めたのが地名の由来だ。その後、一旦ここは荒天・疫病などの理由で1796年に放棄される。

 現在、ポートブレアへはコルカタチェンナイからフライトが発着している(デリーからも経由便が出ている)。

e0074199_17342182.jpg 今回は、3人の友達との旅行で、皆チェンナイからポートブレアに向かった。
 欠航・遅延が続発するとウワサのAir Deccan便だったが、ほぼ定刻にチェンナイを出発。
 Air Deccanは大都市間は激安価格なのだが、この区間は片道5,000ルピー(15,000円)もした。
 にも関わらず、機内はほぼ満員御礼。
 インド人にとって、身近なビーチリゾート地なのだろうか。
e0074199_17345041.jpg 70ルピー(210円)でサンドイッチコンボを購入(Air Deccanでは機内食は希望者が別途購入する仕組)。
e0074199_17361155.jpg コーヒーは自分で粉を混ぜるタイプ。
 これが・・・
e0074199_1736561.jpg 混ぜると、こうなる。
 めちゃ甘い。


 ポートブレアに近づくにつれ、大きな島がたくさん見えてくる。
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哀の流刑地
 今でこそ、リゾート地としてPRされているアンダマン諸島(ニコバル諸島は軍事施設)だが、その歴史は悲惨そのもの。
 先住民は、年々減少の一途を辿り、絶滅寸前の民族までいる。
 英国植民地時代には、インド独立を叫ぶインド人たちを片っ端から政治犯として捕まえ、大陸からこの地の刑務所にぶち込んだ。
 アンダマン観光は、そんな歴史の跡を確認する作業ともいえる。

独房監獄跡(Cellular Jail)
e0074199_197741.jpg 1858年に建てられた監獄の跡。
 セポイの反乱に始まる第1次インド独立戦争の後、英国政府は一旦は放棄したポートブレアに監獄を造営、インド独立を目論む反乱分子をここに送り込むようになった。
 第2次世界大戦期(インドでいう第2次インド独立戦争)の最中には、更に大量のインド独立戦士たちが収容されてきた。
 監視塔を中心に、放射状に独房の棟がのびる建物構造。
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e0074199_20302124.jpge0074199_2030328.jpg 中の独房や廊下は、今でこそキレイに白いペンキで塗られているが、独房内にはトイレはおろか排水溝も見当たらず、当時は糞尿まみれの不潔な状態だったという。
e0074199_20563713.jpg 独房棟の一番奥には、特別に写真の掛かった独房があり、そこがヴィール・サヴァルカール(Veer Savarkar)が収容されていた独房だと分かる。
 彼は、インドでは最も有名な活動家の1人で、『1857年 インド独立戦争(The Indian War of Independence 1857)』を発表・出版し、これがもとで1911年4月にこの監獄に入れられた。
e0074199_20391483.jpg 監視塔の部分は、博物館になっており、当時ここに収容された政治犯や、その他インド独立のために戦った活動家(インドでは彼らをFreedom Fighterと総評している)の写真や活動を展示している。
e0074199_20394230.jpg 中村屋にカレーを伝えた、ビハリ・ボースの絵もある。
 ここに収容されたという訳では無いみたいだ。



 一際目を惹いたのが、この写真。
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 カタカナと漢字で、「アンダマン刑務所」の看板。
 ここは1942~45年、大日本帝国軍の支配下になっていたのだ。
正確に言うと、スバス・チャンドラ・ボースが大日本帝国軍庇護下でシンガポールに建てた自由インド政府の支配下に置かれたのだ。
 ナガランド州のコヒマ同様、こんなところにもインドと日本との接点が。

e0074199_20484154.jpge0074199_20485626.jpg 大日本帝国軍と自由インド政府軍の集合写真や、自由インド政府のシンガポール本部の写真も展示してある。



 館内には当時の拷問の様子も展示。
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e0074199_2193273.jpg これは絞首台。
 下の白丸部分がパカっと開くつくり。
e0074199_21102718.jpg ただの偶然だが、このような残酷な目に遭っているカバ(のゴミ箱)を発見。



 ここでは、夕方の6時半から、音とライトのショーが開催されている。
 この手の催しは、デリーではプラーナーキラーで、他にもカジュラホグワリオールで観られる。
 ベースはヒンディー語で行われるが、英語でやってくれることもある。
 事前に確認すべし。
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ヴァイパー島(Viper Island)
e0074199_21595549.jpg ポートブレアからフェリーで45分・・・ヴァイパー島は主に政治犯の絞首処刑を行っていたところだ。
 島には牢獄の跡もある。
 2004年12月26日に発生したスマトラの大津波によって、ボロボロになったマングローブが痛々しい。
 軍用艦を修理する水上ドックも・・・この一帯が軍事上の要衝であることを再実感。
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人類学博物館(Anthropological Museum)
e0074199_2141183.jpg 市内にある博物館。
 ネグロイド系・モンゴロイド系の民族一覧、先住民の移動経路(インドネシアから流れてきたことを示している)、住居などを展示。
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日本軍戦没者碑
e0074199_2283768.jpg ガンディー・パークという庭園の中にある、大日本帝国軍戦没者の社。
 1997年に海軍慰霊団が来て造ったらしいが・・・恐らくこの南方戦線で生き残った方々が有志で組成した団体なのだろう。
 思わず、手を合わせてしばし黙祷した。
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e0074199_22124470.jpg 因みに、慰霊団の名前を記した名簿がタテヨコ間違って社に掲示されていたので、現地の人に直す様依頼・・・果たして後日ちゃんと直してくれたのだろうか・・・?



 このガンディー・パーク、地元民憩いの場として作られたらしい。
 地元民は殆どいないのだが、ナゾの遊具がそこら中に設置されている。
 写真は、シュールなデザインのイス。
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その他の見どころ
 島の悲しい痕跡だけでなく、ちゃんと観光地らしい見どころもある。

チャタム製材場(Chatham Sawmill)
e0074199_1627639.jpg 1836年に英国によって建てられたこの製材場は、アジア最大の規模を誇る。


コービン入り江(Corbyn's Cove)
e0074199_16345196.jpg ビーチリゾート地はアンダマン諸島の北の島々に広がっているが、ポートブレア付近にもちょっとした砂浜がある。
 入り江なので、全長は100~200mくらいしか無いのだが、砂浜の砂は細かくて色も明るい。 ここから見える景色も良い・・・のだが・・・
e0074199_18224170.jpg ふと脇に目を遣ると、2人のインド人がゴミ拾いをしている。
 着ているものもボロボロで、低所得労働者なのは明らかだ。
 観光で来る金持ちのインド人たちが容赦無く捨てるゴミを、こうして拾っている構図は、インド本土と何ら変わらない。
e0074199_1825463.jpg 砂浜のすぐ近くには、ゴミ焼却場があり、煙がもうもうと上がっていた。
 なにやら、環境破壊の現場を目の当たりにしている気がした。



e0074199_18264038.jpg 砂浜がちょうど途切れた辺りには、第2次大戦下に日本軍が作った塹壕が残っている。
 このタイプの塹壕は、海岸線沿いにいくつか残っている。



インドはここをどうしたいのか??
 今回、ここを訪れて思ったこと。
 それは・・・

   「インドはこのアンダマン諸島をどうしていきたいのか??」

という疑問だ。


 リゾート地を謳っているが、ホテル・レストランなどの受容れ施設は御粗末で、スタッフのレベルも超インドレベル・・・ホスピタリティの欠片も感じない。
 津波で受けた被害の復旧も遅々として進んでいない。
 フェリーで海に出れば、軍艦の写真を撮るなと船員が乗客を注意する。
 1点フォローするとすれば、現地の旅行代理店のサービスがとても良かったという点。

 環境対策も酷いもので、「ゴミを捨てるな」の看板もロクに無ければ、ゴミ箱も殆ど設置されていない。
 観光客は、海や道路に平気でゴミを捨て、波打ち際や道路脇にはゴミが積もっている。

 行きの飛行機から眼下に広がっていた島こそ綺麗に映ったが、いざ上陸すると汚い部分しか目に入らなかった。

 やりようによっては、モルディヴのような発展の仕方もあるのだろうが、今のままではまず間違い無く近い将来、環境破壊でリゾート地としてのステータスは無くなるだろう。


 いろいろ考えさせられる場所だった・・・。



オススメ度(100%個人主観)

     ★☆☆☆☆ ・・・ リゾートとして来たら相当ガッカリする

所要観光時間

     5時間 (観光地は少ない)
by bharat | 2007-05-27 10:30 | インドぶらり旅