タグ:ウッタルプラデーシュ ( 15 ) タグの人気記事
ホテル (2) The Oberoi Amarvilas
e0074199_655112.jpg
<名称>
オベロイ アマルヴィラス (The Oberoi Amarvilas)

<住所>
Taj East Gate, Agra 282001, Agra, Uttar Pradesh, INDIA
・・・タージ・マハルから車で2~3分の位置。

<電話番号>
91-562-2231515

<宿泊料金>
プレミア(標準) : USD600
プレミア バルコニー付 : USD650

デラックス スイート : USD1,100
ラグジュリー スイート : USD1,900

コヒノール スイート 1ベッド : USD2,700
コヒノール スイート 2ベッド : USD3,300

目玉が飛び出るくらい高いが、内容は折紙付。
全室が、Taj Mahalに面して設計されており、各部屋から見ることが出来る。
尚、コヒノール・スイートは、パキスタン大統領ムシャラフやハリウッド俳優ウィル・スミスが宿泊したこともある。


<特徴>
e0074199_17455254.jpge0074199_1745237.jpg 入口をくぐると、ムガル建築を模したデザインらしく、左右対称の前庭・水場。
 吟遊詩人風(?)のオッサンが、笛を吹いて客を招く。
e0074199_1901867.jpge0074199_1903272.jpg 1階(Ground Floor)は、ロビー、喫茶コーナーなど。
 喫茶コーナーは、テラスがあり、その先にはタージ・マハルが青空に映える。
 眼下には、綺麗なプールと食事可能なテーブルスペース。
e0074199_19434325.jpg 尚、レストランは2軒(印食と洋印食)。


e0074199_196179.jpge0074199_1962985.jpg 一般宿泊個室(プレミアルーム)は、ターコイスグリーンとベージュのコントラストの部屋。
 バルコニー有と無しの2タイプあるが、さして価格も変わらないので、どうせならバルコニー有の方が良いだろう。
 バルコニーからは、タージ・マハルが見える。



e0074199_19175994.jpge0074199_19181723.jpg こちらは、最上級のコヒノール・スイート。
 入口には、巨大なリビングスペース。
 望遠鏡で、タージ・マハルのドアップを確認することが出来る。
e0074199_19243411.jpge0074199_19244411.jpg 向かって右には、ダイニングルームがあり、ルームサービスを楽しむことが出来る。
 メイド随伴を想定して、キッチンスペースと宿坊もある。
e0074199_1929697.jpge0074199_19292213.jpg テラスやバスからは、タージ・マハルを一望出来る。
 バスルームは、巨大バスタブの他、大きなシャワースペースもある。


e0074199_19394697.jpg タージ・マハルの保全政策で、一定距離内にガソリン車は入れない。
 このホテルからは、電動専用カートが出ており、タージ・マハルまでのアクセスは万全。

by bharat | 2006-09-30 10:30 | ホテル情報
デリー 12 中世の天文台 ジャンタル・マンタル
 デリーのコンノート・プレイスを南に少し行ったところに、天文台がある。
e0074199_646502.jpg


天文学オタク ジャイ・シン2世

e0074199_761982.jpg この施設は、1725年、ジャイプールの王ジャイ・シン2世によって建てられた。

 ジャイ・スィン2世は、山城を中心とした小都市から、平野部を活用した大規模な都市ジャイプールを造営した名君で、1699年~1743年の長きに亘り王位に君臨した。
 彼は、新しい学問にも強い関心を持ち、中でも天文学には非常に入れ込んだ。自分の家臣を欧州に派遣し、天文学を学ばせ、当時最先端の技術を積極的に取り入れた天文台を領内に作った。


インドに5箇所も作った

 ここデリーより大規模な天文台が、ジャイプールにある。
 また、規模はジャイプールに譲るが、マディヤ・プラデーシュ州のウッジャイン、ウッタル・プラデーシュ州のヴァラナシにもジャイ・シン2世の作った天文台がある。
 マトゥラーにもあったらしいが、現存していない。
by bharat | 2006-03-04 10:30 | デリー市内あれこれ
第31回旅行は、聖川合流の地アラハバード
 今回は、ウッタル・プラデーシュ州東部の都市アラハバードに行ってきた。
 メーラトへの旅行同様、日本の政府系の研究所のインド駐在研究員の方(Nさん)の調査に同行させて貰う形での旅行となった。

北インド随一の文教都市・・・だった
e0074199_373980.jpg 元々、この都市はプラヨーグ(祭り・儀礼の場)という意味の名前で呼ばれていた。紀元前10世紀頃から人間の集落が形成されていたと言われており、宗教・学問発展の中心地の1つであったようだ。中国の僧玄奘も、643年にこの地を訪れたとある。
 12世紀に入ると、この地域一帯はアフガン系イスラム勢力のゴール王朝の占領下となる。次いで、ムガル帝国勢力下に入り、第3代皇帝アクバル治世期の1583年にこの地に城郭を建設、翌1584年にはこの地がアラハバード(アッラーの場所)というイスラム教コテコテの名前になった。その後、マラーター王朝、東インド会社の支配下となる。
 20世紀に入ると、アラハバードはインド現代政治の中心政党である国民会議派の活動拠点として機能した。ガンディー、ネルーらが会議を重ねた場所(詳細後述)なども残されている。
 尚、現在はインドの急激な発展からちょっと置いていかれた雰囲気を醸し出しており、アラハバード大学のステータスなども低下の一途らしい。

「水」で異なる近郊の村の様子
 アラハバードの地形はちょっと特異で、市の東端と南端をヤムナー川に接している。東側には橋が2本かかっており、最近出来た新しい綺麗な橋(通行有料、日本のODA枠で出来たもので建設者は韓国橋梁会社だったみたい・・・ノンリコースだったのね)は結構立派な造り。
e0074199_12484294.jpg 東端に架かっている橋を渡り、村に向かう。道中思ったのは、ヤムナー川のすぐ近くにも関わらず、カラカラに乾燥していること・・・地学的にこのあたりは砂岩質で、雨が降ってもすぐに地下に吸い込まれてしまい、地表近くには水分が残らない。真夏には1~2ヶ月全く水が無い時期もある。農業には不適で、石切などを生業としている人が少なくない。
e0074199_3504099.jpg 1つ目の村は、4つの自然村から構成される行政村(インドでは、自然と出来た無数の村や集落をいくつか束ねて行政村とし、選挙や地方自治体などはこの行政村を単位として動いている)。連邦首相農道事業(PMGSY:詳細はこちら)として道路の敷設工事の真っ最中だった。

e0074199_442959.jpgまた、その道路の脇には学校が。中を覗いてみると、休日なので生徒はいなかったが女性教員が数名いた。この学校は公立校のようで、彼女らは政府から給料を貰っているのだという。
e0074199_492970.jpgまた、この校舎は教室として使用する他、乳幼児の健康管理を行う保健室としても使っており、天井から吊るされたヒモに秤を取付け、体重測定などを定期的に実施するのだと言う。


e0074199_5105975.jpg 村の家々は、雨で簡単に落ちてしまいそうな漆喰塗りの壁に藁葺の屋根という、極めて粗末な作り。
e0074199_5112476.jpgその中に突如現れた綺麗な(といってもデリー市内では見かけない様な貧相さだが)家が1軒。なんでも、インディラ住宅事業(IAY:詳細はこちら)で建てられたのだそうだ。このIAYの理念はとても尊敬出来るのだが、どの村の誰の住宅をどのように建てるかは、かなり不透明なプロセスで決定されることが多いらしく、課題の多い事業みたいだ。


e0074199_128142.jpg 村には、政府が設置した井戸は無く(あったのかも知れないが)、村人が使用している主要な大きな井戸は、彼らが自分で掘って作った井戸だった。飲料水、生活用水(洗濯など)として使用しているというその水は、恐ろしく汚かったが、村人は「綺麗なので飲んでも全然大丈夫」と言っていた・・・雨季などの菌が繁殖し易い時期に村全体が伝染病に感染する可能性を危惧した。


e0074199_122183.jpg 次の村に移動しようと歩いていると、思いも寄らぬものを発見。

 太陽発電装置!

 なんでも、購入すると2,000ルピー(約5,200円)くらいするものを、政府の援助た何かで貸与されたのだと言う。粗末な家の屋根に放り出されたその装置は、子供が夜間勉強する為の照明にではなく、真昼間うたた寝しながら聞くラジオの電源に使用されていた・・・どう使用するかは個人の自由だがもう少し建設的に使って欲しいな。

 最近のTVで、インド国産企業で南インドの貧しい村に発電装置を販売・設置している企業の特集を見た。日本でもこういった事業に積極的に参画する動きは無いのだろうか・・・何かと言うと、ODA絡みの大規模事業ばかりがニュースになるが、こういうのもインド政府の補助を貰いながら出来るんぢゃないかな?




e0074199_12244926.jpg 次の村(集落)は、人口の9割以上が指定カースト民(元不可触賤民:詳細はこちら)というところ。牛、鶏などに囲まれてベッドを屋外に放り出してみんなのんびり過していた。水の入手方法は、電動ポンプ。

e0074199_12384834.jpg 集落からちょっと離れて、村長の家が。
 カラフルな母屋に、離れが2軒。離れにはトラクターが置かれており、かなり他の村民とは生活水準が異なる感じだ。全ての建物の入口には鉄格子のシャッターがはめられていた・・・周りの人たちを信用してないのかしら?


e0074199_710663.jpg 次の村に移動。
 道が陥没していて、車が通行不能だったんで、途中から歩いて移動する。


e0074199_728766.jpg 道の両脇には、小麦・菜種畑が広がっていた。ちょうど収穫期前にあたるらしく、青々と茂っていた。
 と、畑の中心から、何故か頭に枯れ木を乗せた女性たちが大行進・・・これは一体・・・?

e0074199_728307.jpg



 この村で政府が行った公共事業の数々を見せてもらった。
e0074199_752995.jpg まず、囲いだけ作ったトイレ・・・当然これでは用を足せません。

e0074199_7524170.jpg 続いては、予定より舗装範囲が少なく完成した道路。予算のお金や資材が横流しされたのではと村人たちは疑っているらしかった。


e0074199_873943.jpg 市内に戻り、ホテルに帰ってきた。
 ラーム・クリシュナ・ホテル・・・値段は500ルピー(約1,300円)くらいと手頃で、改装直後なのか部屋も綺麗だった。お湯は出たり出なかったりだけど、ちゃんと桶で湯をくれるので大丈夫。部屋は少々埃っぽいが、虫は出ない。併設のレストランも、野菜しか出ないが味はそこそこ。






e0074199_124221100.jpg 翌日・・・。
 現地調査員が増えたので、5人(運転手を除いて)乗れる車をホテルで手配したところ、インドの誇るNo.1国産車アンバサダーAmbassadorが到着・・・前のベンチシートに並んで座れってことね。しかし、この車の製造年を知りたいもんだ。
e0074199_12424915.jpg


e0074199_12542867.jpg この日の村は、市の北部にあたり、川の水の恩恵を充分に受けている地域だった。
 立派な用水路が村中にひかれており、周辺の田畑に水を注いでいた。

e0074199_12555676.jpg 小麦や菜種が茂り、それを脱穀する店もあった。店主に話を聞くと、脱穀機などは日本製だと言う。


e0074199_12561523.jpg
店主 「"オカサ"ってメーカーのだよ。」

僕 「"オカサ"?」

店主 「あぁ、日本の西の方みたいだ。」

 ・・・! オオサカね。しかも、メーカー名ぢゃなくて、場所の名前だっつの。
e0074199_12563173.jpg 機械を見せてもらったら、なんとヤンマーディーゼルのものだった。




 アラハバード市街は、サンガム(詳細後述)など水と密接に関係した文化・生活が根付いているが、少し都市部を離れると、水が豊富にあって裕福な生活をしている村と、水が乏しく貧しい生活を余儀無くされている村とが混在している。
 作物の収穫期を過ぎた3~5月には、もと顕著な違いを目のあたりにしたに違いない。



市内観光も・・・
 アラハバードの市内も半日ばかり観光。

アナンド・バワン(Anand Bhawan)
e0074199_13464335.jpg ヒンディー語で「喜びの家」と名づけられたこの家は、インド初代首相ジャワハルラール・ネルーの生家。現在は、家の内部が博物館に改装されていて、当時の部屋の様子を再現している。ネルーの執務室や、国民会議派の議員たちが会合を行った部屋などが観られる。
e0074199_3402576.jpgマハトマ・ガンディーが宿泊したゲストルームやインディラ・ガンディーの部屋もある(2人の部屋は内側から繋がっており、ガンジーのロリコン説を裏付ける1つの状況証拠になってるんだとか)。



サンガム
e0074199_3415798.jpg アラハバードは、ヒンドゥー教の聖地の1つで巡礼地にもなっている。
 インド神話で、不老不死を得るために神族と魔族(アスラ/阿修羅)が協力したという話がある。彼らは、飲むと不老不死になるアムリタ(甘露)を作る為に、乳海を攪拌したのだが、結局その乳海から得たアムリタを飲んだのは神族だけだった。
 この乳海の霊液がインドの4箇所に零れ落ちたと伝えられており、そのうちの1箇所がアラハバードとされている(他は、ハリドワール、ウッジャイン、ナースィク)。これら4箇所を「4大聖地」と呼んでいることがある(※)。

※この呼び方は結構曖昧で以下の様な区分もある。
「4大神領」
バドリナート、ジャガンナート、ラーメーシュワラム、ドゥワールカー
「7聖都」
ヴァラナシハリドワール、カーンチープラム、アヨーディヤー、マトゥラー、ウッジャイン、ドゥワールカー
「3聖地」
ガヤー、アラハバード、ヴァラナシ

e0074199_621751.jpg この「サンガム」は合流というヒンディー語で、文字通りガンジス(ガンガー)川とヤムナー川とサワスワティ川(聖川だが架空の存在とされている)が合流する場所を意味する。毎年、1月~2月にマーング・メーラーと呼ばれる御祭りが行われ、12年に1度は特に大規模な御祭りクーンブ・メーラーが行われる。
 今回訪れたときはちょうどこの時期にあたり、しかも6年に1度の"準"クーンブ・メーラーだったので、かなりの盛況だった。巡礼者はまだまだこれから集まってくる雰囲気だったが、彼らが滞在するテントの数が半端無かった。


e0074199_635349.jpg 
 また、巡礼者が多く集まるということで、被災者募金の仮事務所も設置されていた・・・小銃を持った軍人にハリボテの動物たちのミスマッチがなんともシュール・・・。


e0074199_62214.jpg 聖なる川とくれば、早速沐浴♪
 頼んでも無いのに、勝手に御祈りしてきて金をボッタくる胡散臭い輩がウヨウヨいてうっとうしかったけど、彼らを無視しながらおもむろに川の中へ・・・。
 3つの聖川にちなんで、3回牛乳を川に捧げて、川からあがる。



Fort
e0074199_6415234.jpg ムガル皇帝アクバルが1583年に建てた城塞。
 現在、観光ではなく軍用施設として使用されているので、内部の隅々まで見ることは出来ない。



アラハバード大学(Allahabad Univ.)
e0074199_7264564.jpg この大学の農学部には、随分と前から日本人が関係していて、現在も日本の農学博士のもと、有機農薬栽培などの試みが実践されている。







オススメ度(100%個人主観)

   ★★★☆☆
by bharat | 2006-01-23 10:36 | インドぶらり旅
第28回旅行は、クリシュナ・カルトの村ヴリンダーバン
 クリシュナ神生誕の地マトゥラーから10km、クリシュナが幼少期を過したとされる村、ヴリンダーバンがある。
 寂しい街並みとは裏腹に、多くのヒンドゥー寺院があり、なかなか見応えがあった。


クリシュナに染まった村
 インドTシャツでも触れたが、ヒンドゥー神の中でも、クリシュナの人気はシヴァと並んで際立っている。特に、イスコン(ISKCON:International Society for Krishna Consciousness/クリシュナ意識国際協会)なるクリシュナ神普及活動を行う世界規模の団体まであるのがスゴい。因みに、調べてみたら、なんとこの団体、日本にもある!
 このISKCONを含め、何故クリシュナが数あるヒンドゥー神の中で人気が際立つのか?
 諸説あるようなのだが、「イケメンでナンパな牧童」説と「西インドの歴史上の英雄」説などが複合してスーパー神様クリシュナが誕生、全ての支持者を取り込んだようだ。
 前者は、マトゥラーで生まれたクリシュナが、地元の暴君を退治し神格化したというもの。顔はカッコ良く、当時のナンパグッズだった笛(今で言うBMW3シリーズみたいなもんか)がとても上手かったので、遊女や踊り子たちにモテまくったみたいだ。
 後者は、正反対のカタい内容。ヤーダヴァ族という民族の指導者として辣腕を発揮し、民心掌握に「信愛(バガヴァット)」を旨とする教え(宗教)を説いて、名声を得た名君だったとする説。この「信愛(バガヴァット)」は、ヒンドゥー教の基本的な教えにも組込まれている。
 ・・・話はクドくなったが、これらのクリシュナ像が全て1つに纏まったので、色んな支持層を取り込んで、確固たる地位を確立出来たようだ。

 ヴリンダーバンは、みんなクリシュナ大好きといった雰囲気の漂う村だ。
 とても貧しい街並み・村人(殆どの人が靴を履いていなかった)は、近代化から取り残された過疎の典型イメージを醸成する。それに反して、立派な寺院が密集するように立っている。

 変わった雰囲気の村だ・・・。


小集落に際立つ寺院の数々

 人口数万人そこそこの村に、保存状態の良いヒンドゥー寺院がたくさん建っていた。
 現在もヒンドゥー教徒が礼拝しているという事実が、これら寺院が異教徒の破壊を免れたことを示している(ヒンドゥー教徒は、一度異教徒に破壊された寺院は死んだ寺院として礼拝しない。カジュラホが好例で、同地の有名なヒンドゥー寺院のうち、生きた寺院は1つしか無い。)。現在も礼拝に使われており、かつ外国人観光客が少ないということで、全ての寺院は入場無料(だったと思う)。

ランガジー(Rangaji)寺院
e0074199_4543052.jpg 1851年に建てられたヒンドゥー寺院・・・なのだが何か形が変だ。
 外壁及び正門は、ラージャスターン州の城郭都市のような体裁でとても武骨な印象を受ける。
e0074199_4552868.jpg 門をくぐって中に入ると、今度は巨大な塔門(ゴープラム)が出現する。
 ゴープラムは、南インドの寺院に固有のもので、末広がり形状に神様の彫刻をビッシリ施した塔状の門。
 北インドでこれを見たのは初めてだ。
e0074199_4555833.jpg 階段井戸状の溜池もあった。


ゴーヴィンド・デーヴ(Govind Dev)寺院
e0074199_5104011.jpg 小高い丘の上に建つ、赤砂岩で出来た寺院。周りの好天にとても良く映えていた。1590年建築らしいが、そもそもは更に上層に4階分あったらしい。ムガル第6代皇帝アウグランゼーブのヒンドゥー弾圧政策の中で破壊された。ということで、現在この寺院は廃墟化しており、礼拝用としては機能していない。


カーリー寺院
e0074199_5151359.jpg 名も無い寺院だが、門構えはとても綺麗。シヴァ神の奥さんのカーリー女神を祀っていたらしいが、現在は閉じて観光・礼拝に使われていないとのことだった。
 何故、クリシュナ信仰の中心地に、唐突にカーリー女神の寺院が建ったのかは良く分からない。一般にカーリー信仰は、インド東沿岸部のベンガルあたりでメジャーなのに。カーリーは、ドゥルガーと同様、破壊の神シヴァの奥さんパールヴァティ女神の化身だ。だがドゥルガー、カーリーに化けるにつれ、女神というかヤマンバみたいな凶暴なキャラに変化する。カーリー女神の怒りを鎮めるために、山羊などを生贄に差出すという祭りが未だにある。

ニディワン(Nidhiwan)寺院
e0074199_5323648.jpg 閉鎖したカーリー寺院の奥にヒッソリと入口が見えるのが、この寺院。
 門をくぐると、巨大な庭園が姿を現す。
 サルに気をつけながら、ヒンドゥー僧に中を案内して貰った。


e0074199_5394454.jpg 足裏が痛いが、庭園内も裸足で歩かねばならない。
 庭園内の1つの社は、クリシュナが寝泊りしたと伝えられる建物。賽銭をせがまれ、「クリシュナ万歳」斉唱を強要された・・・僕はヒンドゥー教徒ではないのだが。
e0074199_540453.jpg 続いては、クリシュナが夜な夜な笛を吹きながら、遊女・踊り子たちと踊ったとされる野外ダンスホール。巨大なチェス盤みたいになっていた。

 「案内有難う」とソソクサと寺院を出ようとしたら、ヒンドゥー僧にガイド料をせがまれた。50ルピー(約130円)あげると、「クリシュナ神にたったのこれだけですか!?」と来た。
 毎度のことだが、こういうときは勝手な理屈で無理矢理説得する・・・「ホントウは200ルピーあげるつもりでした。でも、僕は仏教徒なので、半分払えば充分だと思いました。加えて、あなたのガイドは半分しか理解出来ませんでした。だから、半分の半分で50ルピーしか払いません」と、ガァーッて言ったら、悲しそうに引き下がってくれた。


ボンケ・ビハリ(Bonke Bihari)寺院
e0074199_5483111.jpg 狭い路地を行った先に見えてくる立派な門構えの寺院。
 清掃時間で門は閉まっていたが、門が開くのを待つヒンドゥー教徒らで寺院前はゴッタ返していた。


ラーダー・バッラブ(Radha Ballabh)寺院
e0074199_552224.jpg 1626年に建築された寺院だが、少し前に閉鎖された。
 宮大工みたいな人たちが解体だか清掃だか作業をしていた。


マダン・モハン(Madan Mohan)寺院
e0074199_5561831.jpg 砂岩質の外壁と背の高い塔が特徴的な寺院。内部には、特に目新しいものは無かった。


大迫力のイスコン
e0074199_651180.jpg 集落に固まって建っていた寺院を概ね見終わって、最後にイスコン寺院を見に行くことに。
 デリーでのド派手なイメージがあったので、なんとなく今回は予想はしていたが、予想以上にスゴかった。
e0074199_6101186.jpg 外部は全て眩しい純白に統一されており、各寺院は階段で繋がっている。
 入口を入って左の御堂は、吹き抜け構造になっており、中央に黄金茶室みたいな社が天井に届かんばかりに配置されている。
e0074199_6185840.jpg 右の御堂はというと、広いホールを中央に配置した構造で、その奥にヒンドゥー神の像が安置されている。
 みんな、御祈りをしたり、ホールで雑談したり、思い思いに過していた。

 この御堂の内壁に描かれた絵の1つがとっても気になった。
e0074199_62084.jpg

 ・・・真ん中のキャラだけ、とてもウイている・・・。
 これ、オリッサ州の神様のジャガンナートなのだが、同地方の自然信仰(ジャガンナートは木)とヒンドゥー教が融合した際、このジャガンナートはクリシュナ神の化身という整理をされた。で、クリシュナ神としてこのイスコン寺院にも描かれているのだが、ハッキリ言ってメチャクチャ不自然な構図だ・・・2頭身化した奇面組の連中が周りの連中と一緒にいるみたいな感じ。



オススメ度(100%個人主観)

   ★★★★☆ ・・・デリーからも近く、たくさんの寺院を見られる。

所要観光時間

   2~3時間
by bharat | 2006-01-12 10:30 | インドぶらり旅
第27回旅行は、クリシュナ生誕の地マトゥラー
 今回の旅行先は、マトゥラー(Mathura)。
 デリーからアグラに車で向かうと、途中の道路標識に名前が出てくる。
 ヒンドゥー神クリシュナゆかりの地らしいのだが・・・。

宗教紛争の中心地
 現在、インド人の誰に聞いても「クリシュナの生誕地」という認識がされているマトゥラーだが、意外にも宗教都市としての歴史は、仏教とジャイナ教に始まる。
 紀元前4~2世紀頃、マウリヤ朝の宗教政策の庇護下、多くの仏教寺院やジャイナ教寺院が建てられたと言われており、少なくとも中国の僧玄奘(629~642年にインドに滞在、仏教の修行に勤め、のちに『大唐西域記』を記した)がマトゥラーを634年に訪れたときには、僧院が20、仏教僧が2,000人いたとされている。
 同地がクシャーナ王朝支配下になった紀元後2世紀も、引続き仏教が栄えたが、その後、グプタ王朝期に入ると、ヒンドゥー教が隆盛を見せる。中でも、ヴィシュヌ神の信仰が特に篤かったが、同地域が半農半牧の生活様式であったため、ヴィシュヌ神の化身でありしばしば牧童の姿で描かれるクリシュナ神がこの地域の圧倒的支持を得ることとなった。
 このクリシュナ神が、このマトゥラーで生まれたとされている(因みに第29回旅行のヴリンダーバンもクリシュナゆかりの地である)。

 こうして、ヒンドゥー教によって、この地域から仏教はほぼ完全に姿を消したが、そののち今度はヒンドゥー教が駆逐される。
 アフガン系イスラム王朝のガズニ朝の君主マフムードによって、この地域一帯はイスラムに塗り替えられた。

 その後16世紀に入り、再び商人・農民の間で、マトゥラーはクリシュナ神の生誕地であるとして、クリシュナ信仰が盛んになる。この時期、クリシュナ神を祀るケーサオ・デーオ寺院などが建立されたが、1500年にローディー王朝(イスラム系奴隷王朝)によって破壊され、再建築されたのち1669年に今度はムガル王朝(これまたイスラム系)によって破壊された。こうして、イスラム王朝によるヒンドゥー弾圧政策によってこの地は破壊され、その後イスラム寺院が建設された。

 このイスラム寺院と、その後1960年建てられた新生ケーサオ・デーオ寺院は隣接するように建っているが、近年のある宗教紛争がきっかけで、今現在、ここには極めて厳重な警戒態勢が敷かれている。
 1990年代初頭、時の政権政党インド人民党(BJP)は、イスラム原理主義勢力を牽制する意味で、イスラム対ヒンドゥーの対立構造を助長し、その1つとしてアヨーディヤー(デリーの東約630kmに位置するウッタル・プラデーシュ州の一都市)の寺院を槍玉に上げた。同地に現在存在するイスラム教モスクは、以前ヒンドゥー神ラームの生誕地を祀った寺院があった場所であり、ヒンドゥー教徒に同地を返せというのがBJPの見解だった。
 1992年12月16日、ついに物理的衝突が発生・・・ヒンドゥー至上主義者が同モスクを破壊した。
 これに端を発し、宗教紛争がインド全土に飛び火、近隣諸国にも影響を及ぼす一大事になってしまった。1994年に、最高裁判所がアヨーディヤーの土地の所有権について裁定をしない旨決定し(要はお蔵入り)、時間とともに平静を取り戻しつつあるが、2002年にもアヨーディヤーで巡礼を終えたヒンドゥー教徒を乗せた列車に、イスラム教徒が放火し、多数の焼死者を出すという事件も発生しており、お互いの中ではまだ何かくすぶっている感じだ。
 ・・・と、話をマトゥラーに戻すと、上記アヨーディヤーの宗教紛争の経緯とマトゥラーの歴史が似ている(昔ヒンドゥー寺院のあった場所にモスクが建っている)ので、今でもマトゥラーの寺院の警備はとても厳しいのだ。

 実は、今現在の土地がどの教徒のものなのか、という問題はインドでは結構多い。
 上述のアヨーディヤーは、ヒンドゥー教が興る前に仏教が盛んだったため、寺院建立地の所有権紛争には仏教も絡んでいる。
 また、仏教ゆかりの地ブッダガヤーでも、大菩提寺の所有権をめぐって、ヒンドゥー教徒と仏教徒が争っている。現在は、1949年に制定された大菩提寺管理法に基づいてヒンドゥー教徒が管理しているが、インド仏教のリーダー佐々井秀嶺(インド仏教のリーダーはなんと日本人なのだ)率いる大菩提会による返還運動が行われている。


プチ・ヴァラナシ
e0074199_3392263.jpg マトゥラーの街並みはというと、狭い道筋をヒト・牛・犬・サイクルリクシャーが絶えず行き交い、雑然としている。
 また、街の東側をヒンドゥー教の聖なる川ヤムナーに接しており、ヴィシュラム・ガート(Vishram Ghat)をはじめとして20余りの沐浴場がある。
e0074199_3385712.jpg ・・・そう、ここはプチ・ヴァラナシなのだ。ひと気がちょっと少なくて、活気が足りないことを覗けば、地形も雰囲気もヴァラナシにとても似ている。


クリシュナ生誕寺院
e0074199_3444090.jpg 入口の門で、サイフ以外の一切合財を一時預かり所に預ける様指示され、中へ。中の様子は一切撮影できなかったが、外見はこんな感じ。内部はちょっとした寺院群になっており、通路で互いの建物を行き来できるようになっている。通路にはクリシュナ神はじめヒンドゥー教グッズを販売する店が並ぶ。因みに観覧には靴を脱ぐ必要があり、冬の時期はかなり足が冷え、ツラい・・・。


ホントウの(?)クリシュナ生誕寺院
e0074199_3531724.jpg 参拝を終え、靴をはいていると、1人のオジサンが寄ってきた。
 彼が言うには、今僕が見たのはホントウのクリシュナ生誕寺院では無いと言う。そういえば、関連書籍にもクリシュナ生誕地には諸説あると書いてあったな。
e0074199_3533159.jpg 案内して貰った場所は、政府関係の保護政策が全く採られていないため、写真撮影もOK。


その他の「ゆかり」
e0074199_4175063.jpg 寺院の近くにあるのは、クリシュナがおしめを替えたとされる池(人口の溜池)。今は、水が干からびている。溜池というよりは、アーメダバードで見た階段井戸と同様の形状をしていた。
e0074199_4153222.jpg 続いては、クリシュナの父母が監禁されていたとされる牢獄の跡。
 クリシュナの父ヴァースデーヴァと母デーヴァキーは、デーヴァキーの従兄のカンサ王によって監禁されていた。カンサ王が、デーヴァキーの産む8人目の子供によって自分が殺されるとの予言を聞き、デーヴァキーが子供を産む度にその子供を取り上げ殺していったのだ。ところが、8人目の子供(クリシュナ)が産まれたとき、牢獄の番人の目を盗んで、ヴァースデーヴァとデーヴァキーの従者は赤子を連れてヤムナー川へ。
e0074199_4162950.jpg 川の流れは激しかったが、ナーガと呼ばれる大蛇に守られるように無事川を渡って対岸の村へ。従者は、村で偶然見つけた赤子を連れて再び牢獄に戻った。カンサ王はこの赤子を8人目の子供だと思い、殺す。難を逃れたクリシュナは、やがて成長し、ついにはカンサ王を倒した。


ヴィシュラム・ガート
e0074199_4294460.jpg 数あるガートの中でも一際大規模で、寺院も建っている。
 ここは、上述の話でクリシュナがカンサ王を倒した後、休息した場所と伝えられている。
 この寺で御参りをした際、聖水を頂戴したので、何の気なしに飲んだのだが、これがなんとヤムナー川の水だった・・・この後数日間、激しい下痢になったのは言うまでも無い。
e0074199_4303231.jpg このガートにあった渡し舟を使って、対岸に移動・・・。



ネズミーランド!?
e0074199_4503855.jpg ヤムナーの対岸に見えるのは・・・・東京ネズミーランドのお城!?

 対岸に着いて、小さな集落を通って徒歩約15分。

 それは、真新しいヒンドゥー寺院だった。
e0074199_4511277.jpg 特定の神を祭ってある訳ではないみたいだ。入口の門にはヌルシンハ(ヴィシュヌ神の化身の1つ。頭が獅子、体が人間)、中にはブラフマー、シヴァ、ハヌマーンなど色々な神様が祀ってあった。
e0074199_4522256.jpg
e0074199_4525718.jpg 中には、良く分からないものも・・・なんで頭から火噴いてるんだろう??
 ・・・うぅむ、しかしこの寺院、何故外見だけ妙にヨーロッパ調なのだろうか・・・分からん。


カンサ城
e0074199_456249.jpg 再び渡し舟に乗って元来たガートに戻る。
 途中、大きな城が見えてきた・・・カンサ城だ。
 ガート側から回って見に行ってみたのだが、廃墟になっていて、特に見るものは無かった。
 驚くことに、建物の一部は、今も住居として使用されているようだった。



オススメ度(100%個人主観)

   ★★★☆☆ ・・・アグラよりもディープ故、短期観光客には向かないかも。

所要観光時間

   2~3時間
by bharat | 2006-01-11 10:30 | インドぶらり旅
ヴァラナシでのホームステイ

 昨月(2005年12月)、2~3週間ヴァラナシにホームステイしてきた。
 理由は1つ、集中的にヒンディー語を学ぶには、デリーを離れて、英語の無い環境に行った方が良いと思ったからだ。

 通学先のJNU(ネルー大学:Jawaharlal Nehru University)が1年2セメスター制を敷いており、丁度12月はセメスターの間の休講期にあたる。これ幸いと、ヴァラナシ行きを決めた。

先生の家に寄宿
e0074199_394128.jpg 今回、僕がヴァラナシでの学習先・寄宿先に選んだのは、デリーでの補習先でもある、Bhasha Bharati。ヴァラナシには本校があり、数々の旅行誌にも掲載されている。学習方法や先生の質など賛否両論あるようだが、僕はその即効性のある学習方法を大変気に入っており、今回も迷うことなく同校を選択した。
 デリーの先生が便宜を図ってくれ、僕には元々先生が使用していた部屋を使わせてくれた。日本の寮制学校の施設から見れば粗末かも知れないが、ベッドと机があり、シャワー・トイレも付いているので、充分な設備だ。因みに、通常の寄宿生は漆喰剥き出しの壁に囲まれた、小さな明り取りしかない部屋で、フロ・トイレも共同だ・・・それでもヴァラナシのゲストハウスに比べれば格段に良い環境だが。

e0074199_8194029.jpg 授業は、8:00~11:00と16:00~19:00の合計6時間。
 デリーの先生がうまくヴァラナシの先生に引き継いでくれたようで、僕の怠け癖を知り尽くしていた・・・宿題を出してもコイツはやらないだろうとの読みから、授業をメインにして部屋で1人過す時間を極端に少なくしたようだ。
e0074199_8203779.jpg 授業の合間は、部屋で読書したり、外をブラついたり。
 部屋にいる間は、なるべく先生一家とのコミュニケーションを取ることが出来る様、部屋のドアを開け放しておいた。
 日中はほぼ毎日停電するので、部屋の入口にイスをもっていって、日の光で本を読み耽る・・・。たまに、部屋の中に鳥が飛んで入ってきたりする。鳴き声を聞きながら、のぉんびり時間を過ごす。

ヴァラナシの生活環境
 ヴァラナシは、デリーほど公害がひどくない。街の汚れはすさまじいの一言に尽きる(詳細はこちら)が、光化学スモッグのような状態にはなっていない。 
 気候も、この時期はデリーほど寒くなることもなく、比較的過ごし易いと言える。

 僕が滞在してみて気付いた問題点は、2点。

 まず、電力事情が劣悪なこと。
 今回、パソコンを持って行ったのだが、しょっちゅう充電切れになってしまった。というのも、コンセントから電気が来るのは、毎日早朝~8時くらいまでと、夜間~深夜のそれぞれ数時間だけ。他の時間帯は殆ど毎日停電状態だった。先生曰く、計画停電と突発性の停電が合わさって、かなりの時間、停電になるのだと。幸い、先生の家は大きな発電機を設置しているので、部屋の最小限の照明は確保されるのだが、大半のコンセントは使用不可、湯沸かし器なども使えなくなってしまう。
 デリー日本人会主催の忘年会に着ていったシェルワーニーは、実はここの先生に譲っていただいたのだが、この服のドライクリーニングをクリーニング屋に頼んだときも、停電のせいで危うく間に合わないところだった。なんでも、その店があった場所一帯は、約24時間の間停電になっていて、クリーニングの機械を動かせなかったのだそうだ。

e0074199_847029.jpg 2点目は、僕個人の嗜好の問題なのだが、食べ物の問題。
 僕は、基本的にインドの料理全般が好きで、デリーで生活しているときは基本的にインドの料理を食べている。前回ヴァラナシに行ったときも、食生活については特に問題無く過ごしていた。
 が、今回2~3週間という期間滞在し続けて実感したのは、延々と毎日ベジタリアン料理を食い続けると、心身ともに衰弱するということ。肉を食わないと体に力に入らないし、気分的にもかなり滅入ってくる(飽きる)。ホテルのレストランなどに行けば、ノンベジ(Non-Veg:要は肉・魚・卵など野菜以外のもの)料理にもありつけるのだろうが、今回はホームステイということで、食事は全て先生の家で済ませた。彼ら一家は敬虔なヒンドゥー教徒なので、野菜しか口にしない。で、食卓に並ぶのも、当然野菜・野菜・野菜・・・。
 デリーに戻ってきてから、数日間、肉をドカ食いしたのは言うまでも無い・・・。


季節によって顔を変えるガンガー
e0074199_8591912.jpg 今回も、ガンガー(ガンジス川)から朝日を見ようと思い、早朝、ガート(沐浴場)に行ってみた。
 船に乗り、川にロウソクを浮かべて御祈りし、船上魚売りを無視しつつ、日の出を待った。
e0074199_8593978.jpg
e0074199_901871.jpg 日の光で周りを眺めてみてビックリ・・・9月に見たときと川の様子が全く違うのだ。
 水がすっかり少なくなり、川幅もほっそりして、流れもゆっくり。対岸の砂洲の面積が何倍にもなっていた。弱々しい印象は受けないが、リシケシュやハリドワールで見た激流を思い出せないほど穏やかな雰囲気を醸し出していた。

e0074199_903896.jpg ガートの下に剥き出しになった砂地では、水牛の大群が水浴びしていた。彼らは、雨季~秋の間、どこにいたのだろうか。



垣間見られるカースト意識
e0074199_4194625.jpg 先生一家は、皆敬虔なヒンドゥー教徒だ。
 家の中に、祭壇が設けれており、毎日の御供え物は勿論のこと、子供の成長なども祈願したりする。

 家系は、ブラーミン(バラモン)階級に属し、その中のサラスワットという最上位のカースト(サブカースト)に属している。先生も家族も、日々これを強く意識しており、「我々はヒンドゥー教に基づく生活様式の中で最も重要な位置にいる」と言っていた。

e0074199_4201390.jpg この言動について、反進歩的だとか、差別主義的と決めつけるのも難しい。というのも、彼らなりの一途な宗教心によって、救われている人たちがいることも事実だからだ。彼らの家には、多くの使用人が出入りし、職を得ているし、その中のある老人などは、失明する恐れのある病になったが、先生一家が一切を負担して、手術・療養し、今でも元気に働いている。また、先生一家のあげた収益を元手に私立小学校を設立し、タダ同然の学費で初等教育を施している。

 これらの事業活動・慈善活動については、評価出来る点もある。
 が、彼らの宗教に根ざした上下意識は、日常生活の中では、どうしても我々非ヒンドゥー教徒から見ると、差別的に映る。

 例えば、生活空間。
 先生の家は、4階建てだが、彼らの生活空間は4階にあり、他の階は教室・事務所・ゲストルームで構成されている。この、彼らの居住する4階に、上がることの出来ない人たちがいる。
 ある日、僕が3階の部屋でドアを開け放して読書していると、街のおっちゃんが階段を上がってきた。

 おっちゃん 「こんにちは、ここの生徒さんですか?」

 ぼく 「そうですよ。何か用ですか?」

 おっちゃん 「先生に聞きたいことがあるんだけど、今いますかね?」

 ぼく 「いますよ。一緒にあがりましょう、付いてきて下さい」

 ・・・と、僕が階段を上がろうとしたとき、思いがけない言葉が。

 おっちゃん 「あ、上から下の私に声を掛けるよう、頼んできてください。」

 ぼく 「???」

 おっちゃん 「私のカーストでは、上の階に上がることは出来ませんので・・・」

 ・・・かなりショッキングな一言だった。このあと、彼らは普通に4階と3階で会話をしていたが・・・。


 次に驚いたのは、食事。
 滞在した2~3週間の間、女性の家族と食卓を共にしたことは一度も無かった。殆どは大きな食卓に僕1人、たま~に先生(男性)と一緒に。食事の間、女性はひたすら厨房で料理しており、御代わりを盛り付けたりするだけ。
 日本の一家団欒の絵は、ここには微塵も無い。


 最後、極めつけは使用人との距離感。
 先生の家に出入りしている使用人のうち、若い男性が1人いるのだが、彼は先生とも友達のように接しており、溶け込んでいる。仕事は雑用で、日々のお使いやお客さんの出迎えなどをしている。
 ある日、彼が家にいたときに丁度昼食となった。先生が「一緒に食って行けよ」というので、使用人クンは快くOKした。

 ・・・が、彼が食事をしたのは、食堂の隣の厨房の隅で、しかも地べた。これって、「一緒に食う」って言うのかな・・・。


 また、あるとき、夜みんなでTVを見ようと居間に集まった。先生が使用人クンに「お前もあがってTV見ていけよ」と言うので、彼も上がって見ることに。

 ・・・が、僕を含め、先生一家が皆ソファに座っている中、彼は1人裸足になって地べたに座った・・・僕1人何故かとても気まずい雰囲気を感じた。


 インドの政治家アンベードカルがカースト制廃絶を訴えた際、「使用する側と使用される側の双方に責任がある」と言ったという。
 成る程、お互い、無意識の中でカーストに根ざした差別的行動を取っているんだろうな・・・。
 
 良く、日本人は、インドをはじめとするアジアに駐在中、使用人を雇った際、彼らにナメられるという。どう接して良いか分からないからだ。僕も現在、掃除・洗濯を御願いしている使用人がいるが、やはりナメられいるのだろうか・・・。

 世界に稀有なフラット構造に生きている日本人にとって、この感覚を理解するのはなかなか難しい・・・。


by bharat | 2006-01-10 02:30 | ふと思うこと
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ
 以前、電車でデリーからヴァラナシに行った際、途中駅にラクナウ(Lucknow)があることを知った。高校時代、世界史を勉強していて、何となく記憶にあったんで、いつか時間を作って行こうと思っていた。
 今回、丸1日使って観て回った。


150年前の英印大激突の地

e0074199_201771.jpg ラクナウという名前、どこかで聞いたことあるなと思ってたら、世界史だった。僕のイメージは、英領インドにおけるイギリスの拠点の1つで、1857年のインド大反乱(セポイの反乱をはじめとするインド諸地域の反乱)で大きな戦いが行われた場所、である(詳細は後述)。

e0074199_2023848.jpg インド人には、ラクナウはウッタル・プラデーシュ州の州都で、汚職まみれの政治、北インド随一の公害発生地というイメージしか無いみたいだった。恐ろしく派手な門構えの州知事邸、分不相応に広大な敷地に颯爽と建つ役人の家々、正しい数値かどうか疑わしい有害物質の数値ボードなどなど・・・。
 街並みについては、道は綺麗に整備されていて、悪い印象は持たなかったけどな。


 さて、話は戻ってラクナウの歴史。

 元々、この地域はムガル帝国の支配下にあり、アワドと呼ばれていた。アワド太守は当然ムガル帝国の一配下に過ぎないが、18世紀に入ってムガル王朝が衰退し始めると、ときのアワド太守サーダド・ハーンは独立を目指すようになる。
 ところが、時代はイギリスの東インド会社がインドでの支配権をほぼ全土に広げつつあった頃(1757年のプラッシーの戦いで、インド植民化のライバルであったフランスを破っている)。アワド太守軍は、1764年にこの東インド会社軍と対決、手痛い敗北を喫した挙句、イギリスの監督下におかれてしまう。
 このような状況下にあっても、アワド太守は王国建設を諦めることなく、1775年遷都(当時の都ファイザーバードから立地の良いラクナウにシフトした)、1800年英国駐在官官邸(総督代理公邸とも言われる、イギリスとの懐柔政策の一環)などを経て、1819年にムガル帝国からの独立を宣してアワド王国を建てた。
 1856年、無能なアワド王ワーシド・アリ・シャーをイギリスがコルカタに追放、アワド王国は滅亡する。これが翌1857年のインド大反乱に発展、ラクナウの反乱軍は1858年に鎮圧されるも、前述の英国駐在官官邸などは壊滅的な打撃を被った。

e0074199_21494957.jpg 現在のラクナウは、インドにおける政治の実質権力を握るウッタル・プラデーシュ州の州都ということもあり、政治色が強い。立派な議事堂に、ゴージャスな政府関係者官邸、整備された道路インフラなど、とても洗練された印象を受ける。
e0074199_21503467.jpg



中世・近代・現代

e0074199_2120895.jpg この街での見所は、数は少ないが、色んな時代の建物があって面白い。
 タクシーを借り切って回った(750ルピー、約2000円)。写真は、運転手のラーケスさんと愛車のヒュンダイ・サントロ(何故か政府関係のナンバープレートをつけており、どこに駐車しても御咎め無しだった!)。

バラー・イマームバラ(Bara Imambara)
e0074199_2121935.jpg 文字通り訳すと、「バラー=大きい」「イマーム=指導者」「バラ=御堂」ってな感じ。旅行関連書籍などでは、イマーム記念大堂とか書いてあるが、意味不明である・・・。1784年、アサフ・ウドゥ・ダウラーの命によって建てられた御堂とその周辺建物群。設計者はキタヤトゥッラー。
e0074199_21393123.jpg 3階建ての巨大な丸屋根のホール・・・高さ16m、長さ47.71mは世界最大(らしい)。写真は、全体像とモスク。


チョーター・イマームバラ(Chota Imambara)
e0074199_21532915.jpg  文字通り訳すと、「チョーターー=小さい」「イマーム=指導者」「バラ=御堂」ってな感じ。正式名称をフサイナーバード・イマームバラというらしいが、上記のバラー・イマームバラと比較して小さいことからこのように呼ばれている。
e0074199_23595898.jpg 中央の建物のドームには金箔が貼られ、内部もたくさんのシャンデリアや金製の装飾品、宗教儀式用品などが展示されている。



英国駐在官官邸(総督代理公邸) 跡
e0074199_0154725.jpg 前述した通り、1800年に建てられた屋敷群。住居施設のほか、カンファレンス・ホールやダンス・ホールなどもあったようで、さすがイギリス軍の重要拠点ラクナウの施設だけある。

e0074199_0271361.jpg 1857年、インド軍がここを包囲し、持久戦に突入。立て篭もったイギリス軍及びその関係者3,000人は3ヶ月間援軍を待ち続けた。その後、援軍が到着するも、すぐには戦いは終わらず、戦死者・病死者・餓死者が大量発生する阿鼻叫喚の様相となった。この戦いで全体の3分の2にあたる2,000人が死亡した。
 残念なことに、当時の屋内を再現した博物館は定休日(毎週月曜日)のため観られなかった。


 この官邸の入口にあった説明板を見ていて、大変興味深いなと思ったことが1つ。
 それは、この1857年のムーブメントについて、繰り返し「First independence war」つまり第1次独立戦争という表現がなされていることだ。僕らの感覚(欧米人も恐らくそうだが)では、インドの独立とこれに及ぶムーブメントは、1939年のイギリス-ドイツ開戦による反戦運動から始まって1947年の独立に至るまでのせいぜい10年間くらいではないだろうか。我々の知る運動家(政治家)ガンディー、ネルー、ボースらはこの頃に活躍した人たちだ。インド人にとっては、このムーブメントは第2次独立戦争と意識されているようだ。
 ・・・なかなか興味深い歴史観の違いだ。



アンベードカル記念公園
e0074199_048386.jpg 文字通りアンベードカル(フルネーム : ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル)の功績を讃える意味で建てられた公園。市の中心部からはちょっと北西に離れたところにある。
 彼の活動については、以前メーラトというところに行った際に見かけた彼の像がキッカケで、色々関連書籍を読み漁った。
e0074199_119828.jpg 指定カースト(不可触賤民)出身であり、インド独立運動と同時期に、インドからカースト制をなくそうと尽力した政治家だ。彼は、ガンディーの採ったカースト制の枠組みの中で低カースト/指定カーストへの差別をなくすという甘い柔和策に真っ向から反対し、カースト制自体の破壊を唱えた。殆どの人は、ガンディーはカースト制に反対したと思っていないだろうか。かくいう僕もそうだった。実際はその反対・・・ガンディーは、最高カースト位ブラーミンのガッチガチのカースト制擁護論者だ。
e0074199_254358.jpg ガンディーとアンベードカルとの対立が最高潮に達したのは、1932年。イギリスがインドで高まる独立機運に対して団結力を削ぐ政策を打ち出す・・・職業や宗教のカテゴリーごとに代表者を選出して議会(国会や州議会)に参加させると言い出した。このカテゴリーがクセモノで、イスラム教徒・キリスト教徒を個別のカテゴリーにすることにOKを出したガンディーは、指定カースト(不可触賤民)は個別カテゴリーじゃなくて同じヒンドゥー教徒でしょという判断。これに対し、アンベードカルは、「社会の中で動物以下に見做されながら都合の良いときだけ同じカテゴリー扱いはないだろう」と猛反発。ガンディーはヒンドゥー社会から最下層者が抜けることに危機感を覚え、1人ハンガーストライキを敢行(今でもヒンドゥー至上主義者からは「死の断食」と賞賛されている)。結局餓死寸前までいって、アンベードカルが折れた。
 その後アンベードカルは結局、自身がヒンドゥー教徒である限り、これと渾然一体たるカースト概念のみを分離/破棄することはムリと断念、1956年に仏教に改宗してしまった。そしてその直後この世を去る。改宗を行った場所であるナグプールは、今なおインド仏教の一大活動拠点となっている。

 現在、彼の仏教思想(ネオ・ブッディズムと言われる)の継承者と言われているのは、なんと日本人僧の佐々井秀嶺。1968年にインドに渡って以降、下位カースト者・指定カースト者への仏教改宗支援活動、仏教施設の所有権闘争など、インドの仏教徒の顔になっている。
 一方、政治家としてアンベードカルの遺志を継いでいるのが、女性政治家マヤワティだ。大衆社会党(略称BSP)の女性党員であり、前ウッタル・プラデーシュ州知事でもある。ここまでは、女性首相が歴史的に存在するインドにあってはさして珍しくないが、彼女は指定カースト者なのだ。BSPの支持基盤は勿論指定カースト者。1997年の知事就任時には、この記念公園を訪問したそうだ。

 この広大な公園には、中央の建築物を除いて何も無い。アンベードカルの活動を記した石碑を読む人は僕以外に1人もおらず、高カースト家庭に属する思われる綺麗な制服を着た子供たちの修学旅行地、あるいは、これまた高カースト家庭に属すると思われる若者たちのデートスポットと化していた・・・皮肉な活用のされ方だ。



議事堂
e0074199_275561.jpg 州議会が開催される議事堂で、市の中心部にある。当然、中に入ることは出来ない。



迎賓館
e0074199_245378.jpg タクシーの運転手は、「サハラ」と言っていた。内容を聞くと、どうやら迎賓館のようだった。立派な門の下には神様の像が(ヴィシュヌ神かな、でも女神のような気も・・・)。
e0074199_2484038.jpg



オマケ

原宿系
e0074199_2105084.jpg こちらは、州知事邸の通りに並んでいたグッズショップの1つ。現在の政権政党である社会主義党(略称SP)と州知事ナラヤム・シン・ヤーダヴに関連するグッズがズラッと並ぶ。訳も分からず、思わず色々買ってしまった・・・。
e0074199_2283174.jpg



チキン
e0074199_2322846.jpg ここラクナウはチキン料理、なかでもカバブが名物。タクシー運転手ラーケスさんイチオシの定食屋へ。
e0074199_240345.jpg 店の外も中も結構混雑していた。手早く、カバブ(ハンバーグ風)・ビリヤーニ(炊込みゴハン)・チキン丸焼き・ロマリーロティ(生地のうっすーいロティ)を頼む。とっても美味。しかもリーズナブルな価格(1品20ルピー前後)。
e0074199_2402274.jpg 地元ではちょっと有名な店のようで、店内にはシャー・ルク・カーンやアミターブ・バッチャンら有名芸能人と店主との2ショット写真がたくさん飾ってあった。この辺の感覚は、日本のラーメン屋と変わらないな。



チカン
e0074199_2404879.jpg チキンの他に有名なのが、チキンならぬチカン。太い糸での刺繍(ハンドメイド)が特徴的なシャツ・クルタ・サーリーなどの衣類品が名産品だ。
 目ざとく卸売り店を見つけ、無理矢理小売して貰った。シャツ1枚100~1000ルピー(約250~2500円)。素人目には、なかなか良い出来だと思う。



オススメ度(100%個人主観)

   ★★★★☆



by bharat | 2005-12-20 10:30 | インドぶらり旅
第25回旅行は、ヴァラナシ郊外の町ジョーンプル
 ヒンディー語の集中特訓で、3週間ヴァラナシに行ってきた。
 前回行ったときに市内はあらかた観て回っていたので、今回はちょっと足を伸ばして近くの町を観る事にした。

ジョーンプル(Jaunpur)
e0074199_404512.jpg
 この街を前々から知っていた訳では無い。
 10月に発生したデリーでの同時爆破テロに先立つこと約3ヶ月前、その試験爆破(誤爆説も)とも取れる小規模な爆発が鉄道列車車両内で発生した。乗客7名が死亡するこの事故が発生したのが、このジョーンプル近郊だった。
 その後、Lonely Planetなどの旅行ガイドブックに記載があったことに気付き、我が家の巨大インド地図を見ていて、「ヴァラナシのすぐ近くなのか・・・」とおぼろげに憶えていたので、今回急に行こうと思った。
 実際、ヴァラナシ在住の人に聞いても、サールナートの次に近い中規模の街だと言うことだった・・・口を揃えて「何も無い街だよ」とも言ってたが。

 タクシーを半日借りて移動することにしたが、タクシーの運転手も「何でそんなとこ行くの?」といった様子だった。
 タクシーに揺られること2時間弱、ジョーンプルに入る。

 旧市街地らしき場所にひっそりと立つ古い城(Fort)を観た。

オールド・シャーヒー(Old Shahi)城
e0074199_444516.jpg 13~14世紀、スルタン王朝の1つであるトゥグラク王朝期の建設と言われている。
 この頃の北インドは、イスラム王朝が支配を開始した時期で、奴隷王朝~ハルジー王朝~トゥグラク王朝~サイイド王朝~ローディー王朝と全てデリーを都としていた。デリーの東部のこの辺りは、彼らの王朝と各小国とも衝突が頻発した地域だった。
e0074199_624456.jpg この城も、素朴な造りながら、平地側には高い城壁、背後は切り立った崖になっており、非常に考慮して造られた感がある。敷地内にはモスクや兵舎らしき建物跡が今も残存している。

 ローディー王朝がこの地域の支配権を確実なものにしたのは、1479年のジョーンプル制圧だ(当時同地を本拠としていたシャルキー王国を滅亡させた)。ローディー王朝は、他の4スルタン王朝(トルコ系)と違いアフガン系で、アフガン人傭兵を巧みに起用し、特徴的かつ大きな軍事力を誇ったと言われる。
e0074199_63950.jpg ローディー王朝の初代バフロール・ローディー王から王位を継承した2代スィカンダル・ローディーは、無謀な版図拡大をやめ、国内事情の安定化を図った。中国でいうところの「度量衡」や日本でいうところの「楽市楽座」などの諸政策を展開、国力強化を実現した。また、アーグラ(Agra)の都市機能を大々的に強化している。
e0074199_63295.jpg
 第3代イブラヒム・ローディーの代になると、周囲との衝突が始まる。1526年、パーニーパットの戦いで、中央アジア出身のバーブルとの全面戦争となり、君主イブラヒムが戦死する大敗北を喫する。勝利したバーブルは、デリーとアーグラを支配下とし、ムガル帝国を建国する。
e0074199_642751.jpg ムガル帝国期以外の城郭を見るのは珍しかったが、保存状態があまり良くないのが残念だった・・・。


悪路が物語る・・・
e0074199_611664.jpg もう一つ気になったのが、ヴァラナシからの道路の状態。ところどころ凸凹なので、たかだが50km余りの距離なのに移動に2時間弱もかかる。
 最近のビジネス誌がこぞってインドを取り上げて美辞麗句を並べ立てているが、その殆どは英語堪能なIT技術者と「市場規模」に注目している。「市場」と目されている殆どの人々は、自動車で時速25km/hでしか移動出来ない道路の先にいる町や村に住んでいるという現実・・・日本の雑誌記者はどう捉えているのだろうか・・・。
 インド国内の隅々の道が5年~10年で先進国なみになるとは思えない・・・我々ガイシ企業にとって最も頭の痛い「ビジネス阻害要因」だ。



オススメ度(100%個人主観)

   ★☆☆☆☆ ・・・ヴァラナシにずっと居て、おヒマなら


所要観光時間

   30分

by bharat | 2005-12-15 10:30 | インドぶらり旅
第2回旅行② アグラ再訪
e0074199_6491765.jpg 宮殿列車の旅、最後(9番目)の目的地は、アグラのタージ・マハル。
 僕個人としては、ここを観光するのは2回目。
 1回目訪問時の様子は、コチラを見て欲しい。

 今回は、前回観光時からの追加・補足など・・。


本堂の中を激写!
 タージ・マハルの本堂およびその周辺は、カメラ等での撮影は原則禁止。
 特に、本堂内には多くの警備員がいて、カメラを見るや否や、フエを吹きながら「警察に突き出すぞ」と脅す始末・・・職務を全うするのは分かるが、客相手にそんなにキツくあたらなくても・・・。

 で、今回は、何とか本堂の様子をカメラに収めたいと思い、方々に御願いし、撮らせてもらった。
 大きな大理石をくりぬいて造った棺の囲いは、象牙細工の要領で石を加工したものだが、象牙と違って細かな加工はとても難しく、2度と同じものを造ることは出来ない程だという。
e0074199_651328.jpg

 シャージャハーンとその后ムムタースの棺の中に、2人の遺体は存在しない。
 飽く迄展示用ということだが、良く出来ている。
 ちなみにこの2つの棺が、タージ・マハルの中の全ての建築物で唯一シンメトリック(対称)でないものだということだ。
e0074199_6515053.jpg



進化した保全対策

 建築物の保全に対する対策は、以前訪れたときよりも更に強化されていた。

e0074199_6574156.jpg まず、履物。
 クツのまま入れる様、クツカバーを配布していた。これを装着すれば、クツを脱がないでも本堂に入ることが出来る。・・・が、何故か、左右の礼拝堂には上がることは出来ない(本堂以外の守衛は、全く主旨を理解していないようだった)。うぅむ、何とも片手落ちな対策。

 駐車場からタージ・マハルまでの移動に使われる、電気自動車も新調されていた。リキシャーと合せて、グリーンを基調としたデザインの車は、見た目にも爽やか♪
e0074199_658135.jpg
e0074199_658219.jpg



オススメ度(100%個人主観)

   ★★★☆☆ ・・・前回観光時と同様
by bharat | 2005-11-22 05:58 | インドぶらり旅
第23回旅行は、ムガルの帝都ファテープル・シークリ
 宮殿列車の旅も終盤、8番目の目的地へ。
 列車は、ラージャスターン州から東隣のウッタル・プラデーシュ州に移り、ファテープル・シークリ(Fatehpur Sikri)という場所に到着。

一時は帝都、すぐに廃墟・・・
e0074199_537354.jpg
 「ファテープル・シークリ」という舌を噛みそうな名前のこの土地は、ウッタルプラーデシュ州の西端に位置する小さな街。現在の人口は約3万人ほどだが、かつてはムガル帝国の都があった場所で、第3代皇帝アクバルが建設した。
 アクバルは、1562年にジャイプールのマハラジャの王女マリアム・ザマーニーと結婚したんだが、世継ぎ(男の子)がなかなか出来ず悩んでいた。そこで、ファテープル・シークリに住んでいたスーフィー(イスラム神秘主義)のサリーム・チシュティという聖者に相談したところ、「すぐ生まれるよ」との予言を受ける。実際その直後に、世継ぎ(のちの4代皇帝ジャハーン・ギール)が生まれ、喜んだアクバルは1569年にこの土地に都を移すことを決定、1577年からここを帝都とした。アクバルの統治期には大いに栄えたと言われるが、砂漠地帯であった為に慢性的な水不足が解消されず、1588年にはラホール(現パキスタン)に遷都されてしまった。

大奥はさぞかし・・・
e0074199_6114944.jpg アクバル帝は、宗教信仰に非常に寛容で、イスラム教・ヒンドゥー教・キリスト教・仏教等全ての宗教信仰を許した。彼の妻は5,000人いたと言われるが、彼女らの信仰宗教は千差万別だった。・・・って、皇帝はそれで良いかも知れないが、大奥はさぞかしスゴい事になっていたに違いない・・・。(画像はイメージね)


建物群の詳細
e0074199_5393095.jpge0074199_5391573.jpg ディワニ・カース(Diwani Khas)という謁見室は、外形こそ正方形で地味だが、内部には華の模様をした石柱がありここから建物の四隅に橋が渡してある。アクバルは、この通路を行き来して様々な宗教学者と日夜議論をしたとされている。
e0074199_5413067.jpge0074199_5411592.jpg ジャマ・マスジッド(Jama Masjid)というモスク(イスラム廟)は、メッカのモスクを真似たも
のとされ、イスラム色の強い建築物。中には礼拝堂があり、観光客と礼拝者が入り混じって、ゴッタ返していた。


 尚、このファテープル・シークリは、1986年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に指定されている。近く(40~50km)にアグラ(Agra)のタージ・マハル(Taj Mahal)があるため、あまり目立たないが、こちらも見応えタップリだ。

オススメ度(100%個人主観)

  ★★★★☆ ・・・個人的にはタージ・マハルより好き。
by bharat | 2005-11-21 05:06 | インドぶらり旅