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Hotel (18) Shangri-La hotel New Delhi
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<名称>
 シャングリラ・ホテル Shangri-La hotel New Delhi

<住所>
 19 Ashoka Road, Connaught Place, Delhi 110001 INDIA

<電話番号>
 +91 11 4119 1919

<宿泊料金>
 Rs11,000~14,000-(約33,000~42,000円) / 日

<特徴>
 香港を本拠とするShangri-La Hotels & Resortsグループが、2003年10月27日に開業したホテル。
 同グループは、1971年にシンガポールに第1号ホテルを開業させ、その後アジア地域を中心にホテルを建設・展開している一大ホテルグループ。
 2003年のオーストラリア進出を機に、アジア以外にも進出を開始、2008年にはアメリカ・カナダ、2009年には日本・UKにも進出予定。

 宿泊価格が妥当かどうかは別議論として(インドでは観光シーズンには軒並みホテル宿泊費があがる)、ビジネスユースのホテルとしては、デリーで一番良いホテルだと思う。
 開業当初、未教育だったホテルスタッフも、今では非常に木目細やかなサービスをしてくれる。

 部屋は、1人で泊まるには十分な広さで、空調も程良いし、机には十分な明るさの電気スタンドがある。
 館内のアジアレストラン「19 Oriental Avenue」では日本を含むアジア料理を楽しめる。因みに、寿司をにぎってくれるのは日本人である。





by bharat | 2007-09-20 10:30 | ホテル情報
物乞い界もサラリーマン社会
 インドに長く居ると(といっても2年程だが)、いろんなところに人脈が出来るものである。

 私には、とても仲の良いストリートチャイルドがいる。
 ストリートチャイルドと何でも横文字にすれば聞こえが良いが、要するに物乞いである。
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 彼女の名前はシータという。
 ヒンドゥーの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場するヒロインと同じ崇高な名前だ。
 年齢を聞いたところ、よく分からないと言われた。


 ここで、インドの物乞い事情(?)について、私の知る範囲でちょっと説明することにする。

 インド社会では、様々な種類の物乞いがおり、特に人口の流入が激しいデリーなどの都市部においては、非常に雑多な状態になっている。

 まず、カーストまたはこれに類する事情により、生まれながらに物乞いをしている人たち。
 彼らは、都市部・農村部に限らず一家郎党物乞いを生業としている。
 彼らの中には、細々と仕事をしている者もいる。
 新聞売りや雑貨を売り歩く者たちはこの分類に入る。

 続いて、失業などして物乞いに身を落としてしまった人たち。
 特に、都市部に多い印象がある。
 一攫千金を夢見て上京したもののうまく行かず、そのまま居ついてしまったのか・・・。
 デリーなどに居るのに、北インドの顔立ちでない物乞いたちは、この部類に入ると推測される。

 更には、親・家族に捨てられたあるいは家出して物乞いをしている子供たちもいる。
 先天性障害を持っているために産後すぐに捨てられてしまった悲しい話や、親の虐待に耐え兼ねて家出したものの行く場所が無くストリートチャイルド化した話は、しばしば聞くことがある。
 (このテーマについてはコチラでも少し触れたので参照して欲しい)




 私の友達のシータは、生い立ちについてはあまり多くを語ってくれなかったが、彼女は交差点で新聞を売って歩いている、職業を持った物乞いである。

 彼女の営業センスは非常に冴えており、まず信号待ちの瞬間に、金払いの良さそうな人を見分ける。
 ガイジンかどうか、高級車に乗っているか、など彼女なりの判断基準があるのだろう。

 更に彼女は、一旦顔見知りになった客に対して、ツケ払いを許してくれるのである。
 新聞は1部2ルピー(約6円)なのだが、月曜日から木曜日までは新聞だけ渡して金曜日に纏めて10ルピー渡せば良いのである。
 客を記憶するのは当然だが、大袈裟に言うと債権回収リスク管理の能力を持っているということになる。
 私も、一応彼女の中ではこのカテゴリに入るようで、毎回ツケ払いをしていた。
 彼女からしてみれば、金曜日、私がこの交差点を通らなかったら回収遅延になる訳だが、翌週きちんと回収に来る。



 そんな商売センス・営業センスの光るシータなのだが、彼女がどんな組織に所属しているのか、というのがまた大変興味深い。
 毎日その日の新聞を売り歩く訳なので、当然元締めがいる訳だが、その組織がどうやら会社のような組織になっているようなのだ。

 2年前、私がシータに会ったときには、彼女はまだ新米社員だった。
 だが、今や彼女は年少の部下を2名引き連れ、腕には赤子まで担いでいる。
 差し詰め、係長といったところか。

 交差点で車が信号待ちした瞬間、彼女は部下2名にどの車を攻めたら良いかを矢継ぎ早に指示する。
 その後、彼女は固定客を丁寧に挨拶して回るのだ。

 実に要領の良い営業方法である。



 彼女が「部長」くらいに昇進するまで見守っていきたいものだ。




※差別用語の扱いに敏感な昨今の風潮だが、今回あえて「物乞い」という表現を使った。
by bharat | 2007-07-01 10:30 | ふと思うこと
デリー周辺大暴動の実態
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 この写真。
 つい数日前、私の友人が通勤途中に撮ったものである・・・。

 日本のメディアで如何程の騒ぎになったのかは分からないが、こちらデリーでは5月末から6月初旬は、この話題で騒然としていた。

 一体何が起こったというのか・・・。

2007年5月29日 部族蜂起・・・
 この日、ラージャスターン州の2つの地区で、グジャー(Gujjar、ヴァイシャ(商人)カーストの下位に位置するカースト)階級の民衆がデモを敢行。
 道路の封鎖などを巡って警官隊と衝突、同日だけで16名が死亡する惨事に発展した。

 デモの背景には、カースト制度と物質的近代社会が交錯する複雑な事情があった。
 グジャー階級は、上述したようにヴァイシャカーストにあたる。
 元々遊牧民を指すこのカーストの者たちは、商人とはいっても経済的には殆ど基盤を持たず、その下の指定カースト(スードラや旧不可触民などのカースト+指定部族)の者よりも貧しい生活を強いられている者も少なくない。
 インド1年滞在時のレポートでも記したが、指定カースト者には大学入学・就職・政治的要職に就くなどの際に様々な恩恵が付与されている(留保制度)。
 ラージャスターン州のグジャー階級者は、前回の州選挙の際、カーストの名にこだわるより実利を選択し、自らを下位カースト同様に扱う様求めていた。これを票獲得の好機と見た政党BJP党がこれを公約として見事州の政権政党になった。

 結局選挙後3年経った今も、公約は果たされず、これに業を煮やした一部の過激派が実力行動に出たというわけだ。

 デモ・道路封鎖の舞台が、デリージャイプールとを結ぶ大動脈国道8号線であったことから、騒動は想像以上に大規模化。
 31日には新たに6名が死亡した。


日系メーカー等にも大きな影響
 騒ぎは、隣州のハリヤナやウッタル・プラデシュにも飛び火。
 週をはさんで6月4日(月)には、ハリヤナ州グルガオン地区およびウッタル・プラデシュ州ノイダ地区に数多く入居している日系企業が事務所・工場を一時閉鎖するという事態にまで発展。

 4日の夕方になって、グジャー階級者のリーダー格とラージャスターン州政府との間で停戦協定が締結され、事態は一旦は収束を迎えた。

 この間の死者は、計30名にのぼった・・・。


指定カースト 本音と建前
 この騒ぎ、3ヵ月後に特別委員会が作成するグジャー階級を指定カーストに編入するかを報告書に纏め、審議されることになっている。
 その時点で編入が否認されれば再びグジャー階級者の反発が、是認されれば既得権益を保有している現指定カースト者からの反抗が出るのは必至で、9月くらいにまたデリー周辺で騒ぎが起きる可能性を残している。

 今回の一連の事件で、非常に興味深かったのは、急速な物質社会化に伴うインドの中位~下位カースト者の心理の変化だ。
 インド独立期には、ガンディーは下位カースト者を神の子「ハリジャン」と呼び、インド人民の一員であることを再認識させ、独立のパワーに転用した。
 独立直後の混乱期、アンベードカルは下位カースト者の悲惨な事情を糾弾し、ついには他宗教への改宗を行い、これを薦めた。

 歴史を紐解くと、指定カーストの考え方は、1935年に制定されたインド統治法に遡ると言われている。
 この法律自体は、英国政府が下位カースト者・山間部族らに特別に議席を与えたものに過ぎなかった。
 が、インド憲法制定時には、ガンディーや初代法務大臣となったアンベードカルたちによって、指定カースト・指定部族に一定の恩恵が付与されていった。これが、現在の留保制度の始まり。

 この解釈が、指定カースト以外にも拡がっていったのが、1993年。指定カースト・部族には厳密には該当しないものの、経済的に厳しい状況に置かれている人たちをOBC(Other Backward Classes)と呼び、彼らにも留保枠を新設した。

 一部の過激な知識層やヒンドゥー教至上主義者たちの強烈な反発に会いながらも、この制度はインド全土に広がっていった。


 時代は移り代わり、インドは只今年率8~9%の超スピード成長中。
 外資もドンドン流入、急速な物質社会への転換期を迎えている。
 経済的成長の牽引役は一部の富裕層と言われ、大部分の下層階級はこの成長を実感出来る環境には無い。
 そんな環境下、彼らが最近考えること。
 それは・・・

   <カースト制度で上位にいるより、経済的恩恵を取った方が良い>

ということだ。

 今回のグジャー階級者の行動は、正にこの真理に則っている。



 急速な近代化・物質化の波に飲まれるインド。
 カースト制度とどう渡りあっていくのだろうか・・・?
by bharat | 2007-06-05 10:30 | ふと思うこと
【州別観光事務所4】ナガランド・ハウス
 サフダルジャン廟に程近い、Aurangzeb Road 29番地。
 ナガランド州の観光事務所が佇むように建っている。
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インド東部最果ての州ナガランド
e0074199_1412010.jpg 余程インドについて知見のある人しか、この州名を知らないと思われる。
 ナガランド州は、東をミャンマーに接するインドで最も東側にある州の1つで、いわゆる北東諸州の1つだ。


e0074199_1414255.jpg この州の存在について、私はIITFを通じて知っていた。
 インドの中でも、とりわけ特徴的な性格をもつこの州を、いつか訪れてみたいと思っていた。



 縁在ってこのナガランド・ハウスの方にも大いなる助力を貰い、円滑にナガランド州への入域許可を貰うことが出来たので、先日同州に行くことが出来た(そのときの様子は近々書こうと思う)。
by bharat | 2007-05-15 10:30 | デリー市内あれこれ
水が無い・・・
 5月8日、インドのTIMES OF INDIA紙に、面白い記事が載った。


     「Water shortage will be a thing of the past by 2010」


 水不足問題を、2010年までに解決するという訳だ・・・。
 どうやって??というのが率直な感想である。

 この記事を読み進めていくと、Delhi Jal Board(デリー水委員会とでも訳そうか、Jalはヒンディー語で水のこと)のコメントを指していることだと分かる。
 彼らがデリーの昨今の深刻な水不足事情(詳細は後述する)の責任を担っている機関であるらしい。

 コメントによれば、デリーの1,600万人の人口および非公式住民60万人全てに対して、手動ポンプ、公共水道(水力発電からの供給)、井戸を使った供給網を整備。加えて、これらのネットワークを敷けない場所についてもタンク車を使って供給する体制を敷き、全ての住民を水不足から解放するとしている。
 現行使用している4つの水処理施設に、新たに排水リサイクル機能を付与することにより、供給能力を増強するのだという。
 また、市内の上下水道設備の強化も行い、供給元・供給ルート双方をてこ入れすることによって、来る2010年コモンウェーエルズ大会(英国連邦府傘下の各国による陸上競技大会で、2010年デリーで開催されることが決定している)にも対応するとのこと。

 なにやら、現にここに住んでいる立場からすると、非常に実現困難な、雲をも掴む印象を受けてしまう。
 というのも、今住んでいる自宅でも、断水が頻発しているからだ。


 現在私が住んでいる地域は、日本人を含む多くの外国人が数多く居住する、治安・衛生ともに安心出来る地域の一つだ。
 家などは特別立派な造りでも無いのだが、たいそうな家賃を払わねばならない。差詰め、家賃=安心料といった感じだ(家賃をケチろうものなら、治安・衛生面が即座に不安に晒されるような地域がたくさんあるのだ)。

e0074199_16265192.jpg で、この家の水がしょっちゅう止まる。
 貯水タンクは地下にバカデカいのが1つ、3軒(1~3階の各住人)共有のデカいのが1つ、我が家用のタンクが地上と屋上に1つずつと、受容れキャパは十分過ぎるほど。
 なのに、市からの水の供給量がとても少ない。
 地下タンクへは、毎日決まった時間(午前1回、午後1回)に、直結した水道管から供給があることになっている。まず、これが頻繁に滞る。
 数日に1回しか来ない水を3軒でいっせいに使用するので、水はすぐになくなってしまう。
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 こうなると、最終手段は、民間会社に頼んでタンク車を派遣してもらい、取敢えず我が家用のタンクだけを満たしてしのぐしかない。
 3,000Lで1,000ルピー(約3,000円)弱・・・意外と安いと御思いだろうが、月の水道代200~500ルピー(約600~1,500円)と比較するとベラボウに高い。


 出張や旅行などで、暫らく自宅を離れて、夜遅く帰宅。
 汗でドロドロの体を早くフロ・・・はムリなのでシャワーで洗い流そうと蛇口をひねたら、シーン・・・・・なんてことが今年結構あった。

 これは、肉体的にも精神的にも物凄いダメージを受ける。



 あまり過剰な期待をせずに2010年を心待ちにしようかなぁ。
by bharat | 2007-05-08 10:30 | インド生活
【州別観光事務所3】アーンドラプラデーシュ・ハウス
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 デリー門のすぐそば、Ashok Roadにあるこの事務所。
 アーンドラ・プラデーシュ(Andhra Pradesh)州の出張事務所になっており、観光情報や風土料理を出す食堂などを備えている。

e0074199_20415270.jpg 建物内には、観光をアピールする看板がいくつかあるが、

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 一際目を惹いたのはコレ。
 サイババの家と思われ、ハッキリ言って何のアピールなのか分からない・・・サイババの住む州アーンドラ・プラデーシュ♪ とでも言いたいのだろうか・・・?


 さて、アーンドラ・プラデーシュ州についてだが、州都ハイデラバードを旅行した際に詳しく記したので、そちらを参照して欲しい。


 今回ここを訪れたのは、ここが美味しい御当地料理を出すとインド人の友達に聞いたから。

e0074199_20474751.jpg その食堂、様子はこんな感じ。
 地元のヒトだか職員だか分からないが、結構な賑わいを見せている。
 昼のメニューは、Veg(肉ナシ)・Non-Veg(鶏/羊/魚)から選ぶ。
 料金は全部Rs60-(約180円)/人。
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e0074199_20534581.jpg これが結構美味い。
 食器などは決して綺麗ではないし、店員は殆ど英語NGだが、味はマル。
 アーンドラ・プラデーシュ特有の激辛な味付けがちゃんとされている。

 因みに、ボーイがカレーを持ってグルグル徘徊しており、断らないとワンコ蕎麦のようにガンガン皿にカレーを盛ってくるので注意。

by bharat | 2007-04-27 10:30 | デリー市内あれこれ
【州別観光事務所2】アンダマンニコバル・ハウス
 デリーの大使館が居並ぶチャナキャプリ(Chanakyapuri)地区。
 この一角に、知る人ぞ知る州の観光事務所がひっそりと佇んでいる。
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 中に入っても、職員は全くやる気ゼロ。
 何を話しても電話に夢中。
 仕方なく、受付に無造作に置いてあった観光パンフレットを貰って退散した。

e0074199_17224637.jpg このアンダマン・ニコバル諸島(Andaman & Nicobar Islands)は、れっきとしたインドの州の1つだ。
 だが位置が特徴的で、東経93℃はバングラデシュより東でミャンマーと同じくらい、北緯7℃(ニコバル諸島の南端)はインド大陸の最南端のコモリン岬よりも南になる。
 島の数は572にのぼり、その殆どは有人島。無人島は僅か30余。
 地図を見ると、この諸島だけベンガル湾の遥か南東にポッツ~ンとある感じだ。

 インド大陸に住んでいるインド人たちからすると、この諸島は殆ど気にしていないようで、自領と思っていない節すらある。
 笑えない笑い話にこんなのがある。
 スマトラ島沖の大津波でアンダマン・ニコバル諸島の島民が多数亡くなった。
 インド人の多くは、その報をニュースで聞いて、初めてこの諸島に住んでいる人間がいることを知ったという・・・。

 そんなアンダマン・ニコバル諸島。
 ニコバル諸島には軍事施設がある(らしい)ので、インド人・外国人共に特別な許可無しには入島出来ない。
 一方、アンダマン諸島については、入島可。
 リゾート観光施設として開発を進めている様子。
 綺麗な海を見ながらノンビリしたり、ダイビングを楽しんだり出来るようだ。
 南アンダマン地区のポート・ブレア(Port Blair)というところには飛行場があり、大陸側との空路が確保されている。
 Jetair、Air Deccanなどの便が毎日出ている。

 宗教分布は、ヒンドゥー教67%、キリスト教24%、イスラム教8%、そのほか1%。
 言語は、ベンガル語・タミル語・ヒンディー語が夫々20%前後で、部族語も9%ほど使われている。

 歴史を紐解くと、先住民が住んでいたこの一帯を17世紀にマラタ朝が征服。
 その後、19世紀以降は英国植民地となり、その地域特性上、流刑地として機能した。

 20世紀の第2次世界大戦期には、日本軍がここを占領。
 大戦後、インド独立と同時にインドの一部となった。

 インド北東諸州と同様、インドの中央部からは軽視され続け、先住民族の保護も適正になされていないようで、残すところあと数十人という危機的状況に陥っている民族もいる。


 ・・・一度行って見たい場所の1つである・・・。


<後日談>
 その後、念願叶って行くことが出来た。
 その様子はコチラ
by bharat | 2007-04-26 10:30 | デリー市内あれこれ
いよいよ来ました このシーズンが・・・
 何がって、暑さの話。

 インドの夏は、過酷だ。
 2月に短い冬が終わりを告げると、インド(特にデリーくらいの緯度の一帯)は夏モードに切替わる。
 特に4月からは、気温上昇速度が一気に全開。
 私の住むデリーは、連日40℃台を叩き出している。

 参考までに、MSNのサイトでデリーの週間の天気予報を見てみたら、
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  23日(月) 40℃
  24日(火) 41℃
  25日(水) 41℃
  26日(木) 40℃
  27日(金) 41℃
  28日(土) 41℃
  29日(日) 42℃

 全部40℃オーバー・・・地図マッカッカ。

 こう暑いと、毎日の日程も、少々抑え気味にせざるを得ない。
 営業周りなどで、1日中外出したりすると、グッタリする。
 勿論、外にずっといる訳ではないが、40℃(外、日陰殆ど無し)→20℃(屋内、冷房ガンガン)を何回も何回も繰り返すと、体がおかしくなってくる。
 
 
 この時期、週末のゴルフやテニスなども、12時近くの時間帯になるとかなり危険。
 脱水症や熱中症に可能性が高く、水分補給や日陰で休憩するなどの工夫が必要。


 この時期、観光名所のアグラヴァラナシなどは、連日45℃前後。
 私が、老後に個人旅行でこの辺に来ようと思っても、50℃以上になってて観光どころではなくなっているのではなかろうか・・・。


 恐るべしインドの暑さ、なんとかすべし温暖化・・・
by bharat | 2007-04-23 10:30 | ふと思うこと
デリー33 階段井戸(Gandhak ki Baoli)
 デリー市内の観光場所は比較的中央部・北部に固まっているが、南に全く無いという訳でもない。
 世界遺産のクトゥブ・ミナールが好例だが、その他にもいくつかある。

 この階段井戸もそんな隠れた遺跡の一つ。

e0074199_3375754.jpg クトゥブ・ミナールの南方に広がるメローリ(Mehrauli)集落。
 まず目印となるのは、このアダム・カーン(Adham Khan)廟。アダム・カーンは、ムガル皇帝アクバルの乳母を務めたマハム・アンガ(Maham Anga)の息子で、アクバル皇帝軍の将軍にまでなった人物だ。しかしのちにアクバルの不信を買い、アクバルのこれまた乳母のジジ・アンガ(Ji Ji Anga)の夫のアタガ・カーン(Ataga Khan)によってアグラ城から突き落とされて謀殺されてしまう。そののち、アダムの母マハム・アンガが亡くなった際、アクバルはこの廟を造り、2人の霊を鎮めた(1562年)。
 全くどうでも良い話だが、乳母は英訳すると2種類ある。乳をあげる乳母はWet Nurse、子育てだけする乳母はDry Nurseという。



e0074199_333155.jpg さて、話が脱線したが、このアダム・カーン廟の脇の細い道を入る。
 車1台がやっと通れるくらいのこの側道を進み、何気なく道の左側を見ると、鉄柵が見えてくる。
 外側からは全く遺跡の雰囲気は無いのだが、近づくと・・・
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e0074199_4192690.jpg 5層建の階段井戸が忽然と姿を現す。
 今は干上がっているこの階段井戸、歴史は古く奴隷王朝期にまで遡る(13世紀)。
 同王朝の第3代のイルトゥトミシュ(Iltutmish)王の治世期に、住民の生活用水の摂取手段として掘られたとされている。



e0074199_4195089.jpg 使用目的が一般生活用ということで、建造物の造りは実にサッパリしている、というか何の装飾も無い。
 王族が水を神聖視した水を祀るということで、精緻な彫刻をそこら中に施したアーメダバードの階段井戸とは、明らかに別物だ。


 名称の由来Gandhakは、サルファー(Sulphur)の現地語。
 硫黄のニオイがしたことから、これが井戸の名前となったようだ。

 
by bharat | 2007-04-19 10:30 | デリー市内あれこれ
デリー32 ハウズカス遺跡
 デリーの南、骨董品や高級ブティックの店舗が並ぶハウズカス(Hauz Khas)。

 その最奥に、今は現地民の憩いの場となっている、遺跡群がある。

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ロイヤル・ファミリーの水瓶
 この一帯の歴史は、意外に古く、ムガル帝国期よりも前、13世紀に遡る。
 この時期、デリーはスルタン(君主の意)が王を名乗り、スルタン王朝期の真っ只中だった。
 因みに、スルタン王朝は、1206年に始まる奴隷王朝(この時期に建てられたのがデリーにある世界遺産クトゥブ・ミナール)、ハルジ王朝、トゥグラク王朝、サイイド王朝、ロディー王朝(今もデリーに現存するロディー・ガーデンはコチラ)の5王朝を指す。

e0074199_13424559.jpg ハルジ朝、アラウッディーン・ハルジ(Alauddin Khilji)の治世期、彼は1284年にこの地に都市を形成し、その周辺に城砦を巡らせた。
 今は、総合スポーツ施設となっているシリフォート(Siri Fort)も、1303年、文字通りSiriという地名に建てられた城砦だった。
 このシリフォートの住民のために作られた水瓶は、当時ハウズ・イ・アライ(Hauz-i-Alai、アラウッディーンの池)と呼ばれた。

 ハルジ王朝期の将軍ギャースウッディーン・トゥグラク(Gyasuddin Tughlaq)が建てたトゥグラク王朝期には、この溜池にてを入れ直し、ハウズカス(Hauz Khas、王族の池)と改称した。


庭園の中の様子
e0074199_1547143.jpg 入口部には、小さいが重厚な印象の門がある。
e0074199_15493025.jpg 中は、芝生を敷いた庭園になっており、霊廟が点在している。
e0074199_1551068.jpg 霊廟の屋根の内壁には、コーランと思しきイスラム文字と、
e0074199_1617026.jpg 墓をひっぺがした跡がある。
 ・・・いつ、何の目的でひっぺがしたのだろうか・・・?


e0074199_162135100.jpg 小さな霊廟が乱立しているが・・・
e0074199_16222236.jpg 中にはこんな立派なものもある。
 特に明記されていないのだが、恐らくトゥグラク王朝のフィローズ・シャー・トゥグラク(Firuz Shah Tughlaq)の廟と推測される。
e0074199_16244788.jpg 中には棺が安置されている。
 何故、この棺だけ無事に残っているのか・・・?


 この遺跡群は、増改築されながら、奴隷王朝期からロディー王朝期の長きに亘って使用されていた。
 恐らく、貯水湖に近いということで利用価値が高かったのだろうし、各王朝ともイスラム系だったので、生活習慣上・宗教上使用することが出来たのだろう。
 この立派な建物は、ロディー王長期の1354年になって建てられたもの。
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 マドラサ(Madrasa)と呼ばれる、学校施設として機能していたと言われている。
 因みに、このマドラサという名称は、今現在も使用されており、インドで生まれ育つイスラム教徒たちは、マドラサで教育を受ける。教育内容は、国語・算数に始まりイスラム特有の教育にまで及ぶ。

 


by bharat | 2007-04-14 10:30 | デリー市内あれこれ