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COACHの革財布がインド製!
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 先日、アウトレットで革財布を購入した。
 米国ブランドCOACHの製品なのだが、中のタグを見ると、「MADE IN INDIA」の文字が。

 気になったのが、インドでの生産体制。
 インドでは、皮革職人は、最下層カースト(スードラより下)に位置しており、清掃夫や洗濯屋さんとかと同じレイヤーである。
※カーストの実態についてはコチラ

 インドの国民的球技であるクリケット。
 そのプロ競技者は国の英雄として見られている一方、そのボールを製造する人たちの扱いは酷かった。
 インド在住時、革製のクリケットボールを製造する集落を訪れる機会があったが、極めて劣悪な職場環境で、皆御世辞にも裕福とは言えない生活ぶりだった。
※訪問時の様子はコチラ

 他方、北部カシミール地方では、寒い気候から皮革製品(ジャケットなど)を製造する業者が数多く居る。
 彼らの出自(カースト)はよく知らないが、外国人(欧米人や日本人など)相手に皮革製品の仕立てをやっていた。
 私も革ジャケットとカバンを仕立てて貰ったこともあり、彼らと定期的に会っていた。
 高く安定した収入によるのか、良い身なりであった記憶がある。

 今回購入したCOACHの革財布。
 その製造現場は、果たしてどの様な環境なのだろうか。 

 興味は尽きない。
by bharat | 2012-01-12 10:30 | ふと思うこと
ジュリア・ロバーツがヒンドゥー教に改宗!?
 8月8日付の各種ニュースで、ハリウッド女優のジュリア・ロバーツが、ヒンドゥー教に改宗した旨が報じられている。

 なんでも、新作映画『食べて、祈って、恋をして』の撮影中に影響を受けてのことらしい。
 が、如何にもマユツバだ。

 広義には改宗は出来るらしいが、それでも改宗後は原則最下層のスードラから現世を再スタートすることとなる・・・ハリウッド女優がそんな現実を許容したとは考えにくい。

 また狭義(厳密)には、そもそもヒンドゥー教徒は生まれながらにヒンドゥー教徒であり、途中で他の宗教から乗り換えられるものではない。
 僕が、オリッサ州のプリーのジャガンナート寺院を訪れた際にも、ヨーロッパ人でヒンドゥー教徒を名乗る集団に会ったが、寺院には入れて貰えず、外から寺院を眺めていた。

 余談だが、この「ヒンドゥー教徒でなければヒンドゥー寺院には入場出来ない」は、敬虔な寺院では未だに残っている不文律だ。
 イタリア人でカトリックだったソニア・ガンディーは、上述のジャガンナート寺院へ入ることは許されず、今でも寺院の入口に小さなレプリカが置いてあり、ソニアはそのレプリカを参拝することしか出来ないと言われている。

 たぶん、ジュリア・ロバーツが言っている「改宗」とは恐らく、生活様式をヒンドゥー教に倣うということなのだろう。

 しかし。。。
 欧米のセレブ層で、「スピリチュアル・ヒンズー」なる言葉が持て囃されているそうだが、一方で前近代的だという側面はきちんと理解されているのだろうか。
 生まれながらにヒンドゥー教徒で低いカーストに配されている人々は、毎年仏教やキリスト教に改宗をしている・・・その理由は、不条理なカースト差別を免れたいという切な願いからだ。
(ヒンドゥーについての関連記事はコチラを参照)


 この両極端なムーブメント、貴方ならどう考えるだろうか。。。
by bharat | 2010-08-11 10:00 | ふと思うこと
File No.011 ガルーダ
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 ダージリンの骨董品屋で買った品。

 骨董品屋で買ったが、アンティークではない。
 値段が安かった(確か480ルピーくらいだった)ので、まず間違い無くレプリカだろうが、カッコ良かったので買ってしまった。

e0074199_1443318.jpg 一般に、ガルーダは神鳥とされ、起源はヒンドゥー教である。
 ヴィシュヌ神の乗り物としてしばしばヒンドゥ神話に登場、インドでもこのような絵や彫刻をよく目にする。


 興味深いのは、このガルーダが仏教にも強く影響を与えているという点。
 インド仏教においてはガルーダは神鳥として登場。
 その後、仏教が中国に伝播した際にはカルラ(迦楼羅)またはコンシチョウ(金翅鳥)として、更には日本には天狗としてその存在が認知されている。
 余談だが、日本の寺院でもよく目にする不動明王像の背景にある炎は迦楼羅炎と呼ばれ、ガルーダが吐く炎である。


 ここダージリンで購入したこのガルーダは、タッチが仏教系であると思われる。
by bharat | 2007-05-22 10:30 | インドのいやげもの
第91回旅行は、インドサイの地 グワハティ
 今回は、初めてアッサム州に行ってきた。

 インド東部に位置するこの州は、空路ではデリーから意外に近く、2時間少々のフライトで到達出来る。


北東7州を束ねるアッサム州
 インド北東部は、その地域特性・民族特性から、7つ纏めて捉えられることが多い。
 その7つとは、アッサム(Assam)州、アルナーチャル・プラデシュ(Arnachal Pradesh)州、ナガランド(Nagakand)州(同州の旅行記はコチラコチラ)、マニプール(Manipur)州、メガラヤ(Meghalaya)州、トリプラ(Tripura)州、ミゾラム(Mizoram)州。
 各州の様子については、デリーで開催されたIITFでだいたい把握していたが、これら7州の取纏め役的な役割を担っているのがこのアッサム州のようだ。
e0074199_13282860.jpg 北東7州の中でもっとも面積が広く、中央からのアクセスが良く、また根幹産業である紅茶産業と石油産業が充実していることも、7州を牽引する要因と思われる。
 州内にある、カジランガ(Kaziranga)国立公園では、世界的に珍しいアジアサイを見ることが出来ると言う・・・州都Guwahatiも自らをRhino Cityを銘打って、PRに精を出していた。


グワハティについて
 この州の州都はグワハティ(Guwahati)。
 自然の力(Shakti)とタントリズム(人間の欲望を追求し解脱を得るという、ヒンドゥーの一派)を信仰する小さな王朝がここに都を定めたのが始まりだという。

 その後、今のミャンマーから侵攻したアホム(Ahom)王朝がこの一帯を支配下に置くと、我々が良く知るところの一般的なヒンドゥー教が広まった。

e0074199_13151274.jpg このアホム王朝は、同時期にデリーで興ったムガル帝国と度重なる戦闘を繰返し、その戦地跡は今でも公園として残っている。

 19世紀以降アホム王朝は疲弊し、ここは英国政府による支配を受けることとなった。
 英国政府の当初の思惑は、ここ一帯をイスラム勢力下に置き、東パキスタンの領土に組込むことだったが、結局インド領となった。



e0074199_13234133.jpg 現在の人口は約58万人。
 勿論州内で一番の人口である。



ヒンドゥー教の聖地として
 また、グワハティは、ヒンドゥー教の聖地でもある。
 シヴァ神の最初の妻であるシャクティが死んでしまった際、シヴァ神はこれを悲しんでその亡骸を抱いたままインド中を飛び回った。
 その際、亡骸の体はバラバラに飛び散り、インド各地に落ちた。
 その場所が、現在インド各地でヒンドゥー教徒たちによって神聖視されており、このグワハティには、シャクティの女性器が落ちたとされ、特に神聖視されているのだ。

カーマッキヤ(Kamakhya)寺院
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e0074199_13385475.jpg 1665年に建立されたこの寺院には、シャクティが祀られている。
 今現在も沢山の参拝者が訪れる。
 砂岩で出来た寺院の周囲には、ヒンドゥー教の神々の彫刻が残っている。
e0074199_13384053.jpg 上述したように、ここはシャクティの女性器とゆかりがあるということで、彫刻の中にはこのような女性器を模したものも少なくなく、人々が色粉を塗りたくって拝んだ跡があった。
e0074199_1343048.jpg また、この寺院では、毎日ヤギの生贄が捧げられる。
 これは、その儀式のときに使う断頭台。
 今回はその瞬間を見ることは出来なかったが、多分コルカタで見たのと同じような感じだろう。

 

その他の見どころ
 他に行ったのは、こんなところ。

カラクシェトラ(Kalakshetra)
 アッサム州をはじめとするインド北東7州の民族博物館コンプレックス。

e0074199_13573441.jpg 入口付近には、昔の王朝が建てた城門のレプリカ。
e0074199_13584840.jpg 敷地内には、現地の伝統的な家屋のレプリカも。
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 地元のアーティストが作成したと思われる、様々な彫刻も。
 全てヒンドゥー教に関連したモチーフだが、ポップなタッチに仕上がっており、とてもかわいい。
e0074199_1413948.jpg これは、屋外小劇場。
 たまたま演目が無かったのか、暫らく使っていないのか・・・。
e0074199_1424210.jpg これは子供用遊園地。
 遊具より気になったのが・・・
e0074199_1434470.jpg 子供が泣き出しそうな、この壁の絵。
 もっと子供に好感を持たれる絵にすべきだと思うが・・・。


 また、写真禁止だったので撮れなかったが、博物館内の展示物が面白かった。
 伝統民族祭の際に使用する、色々な御面を飾っていたのだが、これが実に見事だった。
 一見の価値あり。



アッサム料理
e0074199_1474647.jpg ここの御当地料理を出す、数少ないレストランがここ「PADRADISE」。
 屋内はとても綺麗で、割高な料金設定も納得の設備だ。
e0074199_1485660.jpg ヒンドゥー様式と御当地の食物を組合せた特徴的な料理が出てきた。
 ターリー(大皿料理)に、アッサムでよく食べられるアヒル肉のカレーが入っている。
 アヒル肉のカレーはインドで初めてだったが、美味かった。




オススメ度(100%個人主観)

     ★★★☆☆ ・・・ 次は、ここを拠点にしてアッサム北東部に行ってみたい

所要観光時間

     3時間
by bharat | 2007-05-16 10:30 | インドぶらり旅
第86回旅行は、ケーララの門前町トリスール
 コチを北東(内陸方向)に70km進んだところにあるトリスール。

 ヒンドゥー寺院を街の中心に据えた、門前町トリスール(Thrissur、トリチュールとも)に到着する。


 ・・・続きはのちほど・・・
by bharat | 2007-05-10 10:30 | インドぶらり旅
第80回旅行は、英国植民地時代の都コルカタ
 インド東部、ベンガル湾を臨む西ベンガル州の州都コルカタ。
 人口約1,300万人は、ムンバイ、デリーに次ぐ国内3番目の規模。
 商業の拠点ムンバイに政治の拠点デリー・・・インド第3の都市は如何なる特徴を持つ場所なのか・・・。

「古き良き・・・」か「旧態依然」か
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 このチンチン電車とアンバサダー(20世紀前半ばから製造され続けているインド国産車)だらけの街中の風景。
 つい先日私が撮ったものだが、数十年前にタイムスリップしたかのような錯覚すら覚えるノスタルジックさである。

 これは、この都市が英国の影響を強く受けた歴史に大きく起因している。
 欧州列強がこぞって植民政策を進めていた1530年、コルカタはポルトガルに占領された。
 以降、1690年に英国の東インド会社がこの土地を取得すると、街の機能を大きく発展させていった。街の名はカルカッタと呼ばれた。
 その後、英国がインドの植民政策を、東インド会社による間接統治から国の直轄に切替えると、1698年以降はコルカタは英国インドの首都となった。
 1912年、首都機能はデリーに移転したが、この間もコルカタは現在のバングラデシュを含むベンガル地方の州都として機能し、1947年のインド独立後も西ベンガル州の州都として機能し続けている。
 2000年前後からのインド各地の改称運動(英国によって付けられた都市名をインドの旧名に戻す動き)により、2001年に正式にカルカッタからコルカタに改称した。因みに、1995年にムンバイ(英国命名ボンベイ)が、1996年にチェンナイ(英国命名マドラス)が夫々改称している。 




 英国建築を色濃く受継ぐ歴史建造物をいくつか。

ヴィクトリア・メモリアル(Victoria Memorial)
e0074199_10433588.jpg 文字通り、英国のヴィクトリア女王の死去を偲んて建てられた記念館。
 当時、ヴィクトリアは英国領インド女王でもあったので、1906年当時の首都コルカタにこの館が建てられたというもの。
 1906年に着工し、完成したのは1921年。
 ウィリアム・エマーソン卿という著名な英国建築家の手によるもので、イタリア建築とムガル建築の要素をミックスした設計になっている。


タゴール・ハウス
e0074199_13113621.jpg この英国建築は、詩聖と言われたラヴィンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)の生家。
 今は、ラヴィンドラ・バラティ大学の一部になっている。
 タゴール・・・なんとなぁく聞いたことのある名前だが、実は日本と大きな繋がりがある人物だ。
 1861年、コルカタの上流階級の家に生まれた彼は、17歳のときに英国に留学、詩の才能を大きく伸ばす。1901年に、コルカタ郊外に野外学校を設立するかたわら、詩作活動を行い、1909年に詩集『ギータンジャリ』を発表、原語はベンガル語だったが英訳されると世界から注目を浴びた。
 1913年に、アジア人として史上初のノーベル文学賞を受賞した。
 尚、インド国歌・バングラデシュ国歌の作詞・作曲は彼の手によるものだ。


e0074199_18321917.jpg タゴールは、当時西洋化に急速に傾倒する美術において、東洋美術の見直しを行っていた岡倉天心と親交をもった。
 きっかけは、岡倉天心が仏跡視察を目的として1902年インドに来たとき。彼は、ブッダガヤアジャンタエローラなどの仏跡を視察したが、この間10ヶ月ほど、タゴールの下に逗留している。
 その際、アジアの文化・歴史・平和などについて大いに語り合い、御互いに共感したという。
 すっかりインドを気に入った天心は、門下の横山大観らを現地見学のためにインドに派遣した。
 このときのベンガル美術との盛んな交流は、日本美術ベンガル派と呼ばれる流派を生んだほどだ。

 返礼とばかりに、タゴールはノーベル賞受賞後の1916年、訪日。
 上野で開かれた歓迎式典でタゴールは講演を行い、列席した大隈重信首相は感涙したという。

 その後、彼は数回日本を訪れたが、日本が東洋文化を捨て去って軍国主義に流れる様を批判しながら、1929年を最後に日本を地を踏むことは無かった。 



女神信仰発祥の地
e0074199_1655315.jpge0074199_166857.jpg 20世紀前後の英国風の街並みも特徴的だが、もう一つこの地域に特徴的なのが宗教だ。
 ヒンドゥー教の中でも、特にドゥルガー女神、カーリー女神を篤く信仰している地域なのだ。
 いずれも、シヴァ神の奥さんパールヴァティ女神の化身で、ドゥルガー女神は戦いの神、カーリーは更にそれを通り越して破壊・殺戮の神として崇拝されている。カーリーは、肌の色ドス黒く(もしくは青く)、破壊の神シヴァを足蹴にしている構図はなんとも迫力満点である。

 コルカタ市内・近郊で、カーリー女神はじめヒンドゥー教の寺院を数多く見ることが出来る。

カーリー寺院
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 1809年建立(前身はもっと昔からあったらしい)。
 寺院内は一切写真撮影禁止(画像は出店で買った写真をスキャンしたもの)。
 だが、一度行く価値はある。
 この寺院では、カーリー女神の怒りを鎮めるために、1日数回ヤギを生贄に捧げる儀式が行われるのだ。
 時間はマチマチだが、今回たまたま儀式に立ち会うことが出来た。

 鼓笛隊が太鼓を鳴らす中、一頭のヤギが引きづられて入場。
 断頭台に無理矢理首を固定されると、聞いたこともない鳴き声が響き渡る。
 「めぇー」ぢゃなくて「め゛゛え゛゛ーーーーー!」みたいな感じ。

 オッサンが、おもむろに年季の入った偃月刀を振りかぶり、首をドカッと一太刀で切落とす。
 首が転がり、自由になった胴体が血を出しながら、手足をバッタバッタと動かしまくる。

 これだけでも結構R指定な感じなのだが、ここからが更に凄い。
 断頭台近辺に流れ出た生き血めがけて、参拝者が駆け寄ってきて、素手で血を触りそれを有難そうに額に塗りたくるのだ!

 なんというか・・・奥が深いねぇ、ヒンドゥー教は。


ダクシネシュワル寺院
e0074199_16342836.jpg 別名、ニュー・カーリー寺院。
 ここもカーリー女神を祀っている。
 1847年建立。
 本堂の周りにはシヴァ神を祀る小さな祠が並んでおり、現人神であるラーマクリシュナも祀っている。


ビルラー寺院
e0074199_18472826.jpg ビルラー財閥が建てた寺院。
 ごく最近に出来たものと思われる。


パレシュナート(Pareshnath)寺院
e0074199_18495842.jpg これは、ジャイナ教の寺院。
 1867年の建立。
 ジャイナ教徒は、自らの生活を厳しく律する一方で、信仰の場となる寺院にはふんだんな贅を注入する。
e0074199_18515740.jpg 内部も銀や鏡を使い、キラキラ光っている。

ナコーダ・モスク(Nakhoda Mosque)
e0074199_2025366.jpg これは、イスラム教のモスク(礼拝所)。
 1926年の建立。
e0074199_18562780.jpg 敷地内は広く、1万人の礼拝者を収容出来るのだという。
 緑色の大きなドームと、高さ50mにもなる2つの尖塔が特徴的。


その他
 英国的な要素も、宗教的な要素も無いが、是非抑えておきたい場所を2つほど。

ハウラー(Howrah)橋
e0074199_1934270.jpg 1943年、コルカタを流れるフーグリ川に掛けられた橋。
 特筆すべきは、この外見。
 上部にやたら鉄骨を使っている。
 それもそのはず、水流に影響を及ぼすとの懸念から橋脚を立てることを避け、全長450mに亘って川には1本の橋脚も立っていないのだ・・・対岸同士で引っ張り合う構造から、橋梁上部が鉄骨だらけなのだ。


インド博物館
e0074199_19141885.jpg 殆どの都市の博物館が物足りないというインドにあって、デリーの博物館と並んで充実した展示物を誇るのが、この博物館。
 インド各地の遺跡発掘物などが豊富に並び、大いに関心を誘うが、なかでも面白いのがこの民族コーナー。
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 大きなインド地図の周りに、各地の民族の人形が。
 ジャンムー・カシミール州の人々の肌の色が白くて、分厚い衣服を纏っているのに反して、インド最南端のアンダマン・ニコバル諸島の人々の肌は真っ黒(インド大陸の茶褐色とも違う黒さ)で殆ど何も着ていない。
 よく「多様性のインド」というが、この展示がその全てを表している。



オススメ度(100%個人主観)

   ★★★☆☆ ・・・ インド4大都市で一番特徴のある都市では無かろうか

所要観光時間

   6~8時間 (渋滞が酷く、兎に角移動に時間が掛かる)
by bharat | 2007-05-01 10:30 | インドぶらり旅
ネパール ~インドと最も近い国~
 インドの北東に面する隣国、ネパール。

 ブータンやチベットと並んで欧米からは「シャングリラ」と呼ばれるこの国は、国土面積15万k㎡(北海道の約2倍)、人口約2,500万人の小さな国だ。

国の概要
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名称 : ネパール国(ネパール王国とも)
面積 : 1,470,000k㎡
首都 : カトマンズ(カトマンドゥ、Kathmandu)
人口 : 2,530万人(2004年)
国旗 : ネパールは、世界でただ一つ国旗が四角形でない国だ(1962年から採用)。
      青い縁取りはヒマラヤを、中の赤色は国民を示している。
      上部の月模様、下部の太陽模様は、王家・ヒンドゥー教への篤い信仰を示し、
      国家・信仰が月や太陽の如く永続するようにとの意味が込められている。
国教 : ヒンドゥー教
言語 : ネパール語(ヒンドゥー語と似ている)
時差 : 日本時間 - 3時間15分
      こんな中途半端な時差があって良いのか・・・。
      インドの時差(3時間半)もたいてい中途半端だと思ったが、
      まさか15分単位が存在するとは。
標高 : 首都カトマンズは約1,300mだが、標高8,000m級のヒマラヤ山系もある
国花 : シャクナゲ  国獣 : 牛  国鳥 : キジ(虹雉)
通貨 : ネパールルピー(1ネパールルピー=1.7円)
      インドルピー紙幣がそのまま使用可能。
      だが、インドの500/1,000ルピー紙幣の偽造が深刻化しており、
      この2種類の紙幣は「使用出来ない」。
      ※但し、闇市場や高額な物を扱う店では、受取ってくれる場合も。
貿易 : 輸出 インド・アメリカ
      輸入 インド・シンガポール
産業 : 農業(国内GDPの約40%を占める)
      観光事業(10~20%を推移、国内治安に左右される)
      既製服/カーペット類


歴史
 ネパールの歴史は殆どカトマンズ盆地の歴史といってもよく、聖人ナイア・ムニがカトマンズの谷底を乾かして、その場所を住処としたとの記述に始まる。
 これは勿論神話だが、実際に大昔カトマンズ盆地は湖の底だったということが、近年の地質調査から明らかになっている。

 インドに数多くの足跡を残している仏教の始祖ブッダだが、彼が誕生したのは現在のネパール領内のルンビニというところだ(紀元前6世紀)。
 その後、インドのマウリヤ王朝のアショーカ王が、ダウリでの戦いを機に仏教に改宗、紀元前3世紀にこのルンビニを訪れたという記録が残されている。

 ネパール内に確固たる王朝が成立したのは、4世紀頃。
 リッチャヴィ王朝がカトマンズ盆地一帯を支配した。
 これにとって代わったのがマッラ王朝で、10世紀から15世紀まで彼らが支配王朝だった。
 15世紀中頃、マッラ王朝の3人の王子がカトマンズ、パタン(Patan)、バクタプル(Bhaktapur)で独立国を立上げた。この3箇所には、今でも保存状態の良い王宮の跡が残っている。

 16~18世紀、ネパールには、イスラム勢力にインド本土を追われたヒンドゥー勢力が多数流入してきた。
 彼らのうち、カトマンズの西方のゴルカ(Gorkha)に拠点を置いたプリティヴィナラヤン・シャー(Prithvinarayan Shah)が、1768年にカトマンズを制圧し、3つに分裂していたカトマンズ盆地を完全掌握し、その後ネパール全土を支配下に置いた。

 1814年~1816年、ゴルカ王朝はインド大陸の完全掌握を狙うイギリスと対決(第1~3次ゴルカ戦争)。イギリスに負けたゴルカ王朝はイギリス保護国となり、高い戦闘能力を買われたゴルカ兵は、イギリス軍の傭兵部隊となることを義務付けられた。
 彼らは、なまってグルカ(Gurkha)と呼ばれ、インド独立戦争のきっかけとなったセポイの反乱でインド軍鎮圧の大切な戦力となった。
 20世紀に入っても、彼らはどんどん危険な戦場に投入された。第二次世界大戦ではビルマ戦線で日本軍と、1982年のフォークランド紛争(南米最南端の英領フォークランド諸島にアルゼンチンが侵攻、イギリスがこれを奪還した)でもイギリス軍として参加している。

 シャー王朝はイギリス保護の下存続するが、1846年には属下のラナ家に支配権を握られ、以降1951年まで、同家から輩出する宰相による国政運営が続いた。
 1951年、トリブバン国王はイギリスから独立したインドの影響を強く受けながら、民主化への舵取りを行う(立憲君主制への移行)。
 しかしその息子マヘンドラ国王の治世期以降、再び国王の支配力を強化する動きが出始めると、民主化運動が激化。
 1990年に、国民主権をうたった新憲法が制定された。

 昨今の情勢不安が出始めたのは、1996年くらいからだ。
 中国の影響を強く受けるマオイスト(毛沢東的共産主義者)たちが、ネパールの王制打倒を掲げて活動を活発化、国内気運も国の民主化へと動いていた。
 この時期、王家は親中派のビレンドラ国王・ディペンドラ皇太子と、親印・米派のギャネンドラ王弟とに分かれていた。国民からは、民主的路線を進める前者が慕われていた。
 しかし2001年、王族の晩餐会で銃乱射事件が発生、ビレンドラ国王・ディペンドラ皇太子はじめとする王族殆どが死亡する惨事となった。王室の公式発表では、ディペンドラ皇太子が銃を乱射したとなっているが、動機が不十分、事件後の対応に不可解な点が多い等の理由により、ギャネンドラが王権奪取をせんと行った線が強い。
 事件後王位を継承したギャネンドラは、一方的に非常事態宣言を発令、議会停止、専制人事などを行った。
 このなりふり構わぬ絶対君主制の復活に、国内の民主化活動が爆発、2006年4月24日に国王は国民への権限委譲、議会政治復活を認めた。同月27日にコイララ首相率いる新政権が誕生した。
 同政権下、国王の権限は大幅に縮小され、国家統帥権剥奪、国歌変更(以前の内容は国王を讃える内容になっていた)、政教分離などが議決された。

 目下、問題視されているのは、今後の体制を象徴君主制とするか、共和制まで一気にもっていくかということだ。




 インド周辺 第15回旅行 ・・・ カトマンズ
 インド周辺 第16回旅行 ・・・ パタン
 インド周辺 第17回旅行 ・・・ バクタプル
 インド周辺 第18回旅行 ・・・ カトマンズ周辺ほか
by bharat | 2007-03-02 10:30 | インド周辺国ぶらり旅
デリー30 ロータス・テンプル(Bahai'i House)
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e0074199_3422918.jpg デリー東南(フマユーン廟を東南に進む)に建っているこのシドニーのオペラハウスに似た建築物は、宗教建築物だ。

 バハイ教と呼ばれる宗教の寺院なので、バハイ・ハウス。
 蓮の花を模しているので、通称ロータス・テンプルと呼ばれている。
e0074199_3432389.jpg この余り聞き馴染みの無い宗教は、イランで生まれたバーブ(Bab、1819~1850)が始めたバーブ教が元だ。彼が異端視されて20,000人の信徒たちと共に1850年に処刑されると、その後バハーウッラー(Baha'u'llah、1817~1892)がバハイ教として確立、アブドゥルバハー(Abdu'l Baha、1844~1921)へと続いた。
 教義は、人類の平和と統一。男女平等、一夫一婦制、偏見の除去、教育の普及などを推進している。
e0074199_344764.jpg 現在、360ヶ国に信徒がおり、2112もの宗教団体によって支えられている。キリスト教に次いで世界で2番目に広く信仰されている宗教だと言われている。
 27エーカーという広大な敷地に特徴的な建築物。
 屋内へは、クツを預けて入る。
 いかなる宗教の人でも、ここで瞑想をすることが出来る。
e0074199_3474564.jpg この建物は、1980年に建設開始され、86年に完成。
 高さ34.27m、花びら状の屋根は9×3=27枚。この9という数字は、バハイ教にとって意味のある数字らしい・・・周りの池の数も9つあった。
e0074199_3482826.jpg 花びら屋根にふと目を転じると、人が!
 恐ろしく不安定な体制で、清掃作業をしていた。

by bharat | 2007-02-16 10:30 | デリー市内あれこれ
タイ ~多分にヒンドゥーな仏教国~
 今回初めてタイに行った。

 ASEAN諸国の中にあって、日本との結びつきが特別に強いイメージがあるこの国。
 今回訪れたのは、首都のバンコク(Bangkok、旅行記はコチラ)だけだったが、色々と勉強になった。


国の概要
e0074199_15574411.jpg名称 : タイ王国
面積 : 51万4,000km2
人口 : 6,242万人(2005年現在)
首都 : バンコク(Bangkok)
人種 : タイ族(85%)・中国系(10%)・マレー族/山岳民族など(5%)
言語 : タイ語
時差 : 日本時間 - 2時間
国教 : 上座部(小乗)仏教
      人口比率的には仏教(95%)、イスラム教(4%)、キリスト教/ヒンドゥー教/スィク教など(1%)
通貨 : バーツ (1バーツ≒3円)
産業 : 第1次産業従事者40% GDPに占める割合10%
       輸出産業としては天然ゴム産業
      第2次産業従事者15% GDPに占める割合35%
       輸出産業としてはコンピュータ・自動車関連
貿易 : (輸出) 米国、日本、中国、シンガポール、香港
      (輸入) 日本、中国、米国、マレーシア、UAE

e0074199_185975.jpg体制 : 立憲君主制
      国王はラーマ9世
      (正式名プーミポン・アトゥンヤデート)
      1946年6月に即位したのでなんと在位61年!!
政府 : スラユット・チュラーノン暫定首相
      昨年のクーデターについては、
      「国の歴史」で後述する
e0074199_16233218.jpg国旗 : 一番幅広の紺色は王室、
      白色は仏教、
      赤色は国家 を示している
国章 : 仏教国なのにガルーダ
      (ヒンドゥー神話に登場する聖なる鳥)
国樹 : ラーチャプルック
国花 : ゴールデンシャワー


国の歴史
 タイが所謂「国家」としてその歴史をスタートさせたのは、1238年にタイ族のイントラチットがスコータイ(Sukhothai)王朝を建てた時点だと言われている。

 これ以前は、マレー族やモン族が局地的な都市文化を形成していたのみで、カンボジアのアンコール発祥のクメール王朝もタイ地域一帯を支配したが、タイ独自の国家があった訳ではない。

 スコータイ王朝は、クメールの影響力が弱まってきた13世紀にタイ一帯を掌握、統一国家を作り上げました。第3代のラームカムヘーン王の治世期にその版図は急拡大、内政面でも上座部仏教をスリランカから輸入したこと、統一文字の制定、貿易拡大など大きく発展した。しかし、この名君の死後、国は急速に力を失い、アユタヤ王朝に吸収されてしまった(1438年滅亡)。

e0074199_19465050.jpg アユタヤ王朝は、文字通り首都をアユタヤに置いた王朝で、ウートーン王が1351年建国した。正式に即位後、王はラーマーティボーディ-と名を変えた。
 同王朝は、周辺各国との知れるな生存競争を約400年に亘って生き抜いたが、そのベースには、建国者ラーマーティボーディ-の巧みな国内統一政策が根幹を成していた。
 彼は、タイの中世の基本法典となった三印法典を制定した。この法典は、スリランカから取入れた上座部仏教(小乗仏教)を基軸に、タイに固有の習慣、ダルマシャーストゥラ(インドにおける倫理・道徳・価値観・法律・社会制度を記した書物で、特にマヌ法典が有名)を組み合わせて出来たもの。

 同国は、海路の重要拠点としても機能し、中国・インドなど近隣国は勿論のこと、ヨーロッパの国々や日本とも貿易を行っていた。
 日本とは、1425年から1570年までに合計68隻の琉球船が往来していたとの記録が残っているし、時の室町幕府が朱印船貿易を行っていたとの記録も当時の日タイ貿易の事実を裏付けている。
 また、この関係は江戸時代になっても途絶えること無く継続し、江戸時代初期の記録では幕府公認の交易船56隻が日本―タイを往復していたとある。当時、沢山の鉱石を産出した日本からは、銅が主たる貿易品だった。

e0074199_2028140.jpg また、このアユタヤ期に、忘れてはならないのが、山田長政(1590~1630)だ。
 彼は、17世紀初頭にアユタヤの日本人町に移り、日本人傭兵部隊で活躍した。時のアユタヤ王ソンタムから厚い信頼を受け、南部の王国の知事にまでなった。最後は、アユタヤの追う継承問題に巻き込まれて毒殺された。
 象にまたがって戦う姿が、日本史の教科書にも掲載されていたと記憶している。

 だが、この山田長政は、歴史的捏造とする説がある。
 まず、肝心のアユタヤ王朝側の文献に、山田長政やこれに相当する現地語の名前が登場する文献が無いこと。
 加えて、日本での論拠となる文献も実に信頼性が低いこと。
 大東亜共栄圏構想下の時代に、日本と東南アジアを友好的に連想させる話を丸ごと作り上げてしまったというのが捏造説支持者の論。
 果たして真相は如何に。

 話はタイから少し逸れたが、山田長政が活躍した(であろう)アユタヤ王朝は、1767年にビルマに侵略されて滅亡した。

 
e0074199_20274423.jpg ビルマ軍にビクつくアユタヤの暗君エーカタットを見限って、中国系タイ人のタークシンが独自勢力を形成し、ビルマ軍を撃退、自らトンブリーに王朝を建てた(1767年)。
 彼は、右腕のチャオプラヤー・マハーカサット・スック将軍らとともに失地回復・版図拡大を行っていたが、自分に王家の血が入っていないことを過剰に気にする余り、精神異常を来たしてしまう(一説には、円滑な王位禅譲を狙って、狂乱した振りをしたとも言われている)。
 1782年、タークシンはチャオプラヤー・マハーカサット・スック将軍によって処刑され、トンブリー王朝は滅亡した。

 チャオプラヤー・マハーカサット・スックは、バンコクに遷都し、ラーマ1世を名乗った。
 チャクリー王朝と呼ばれるこの王朝は、ラーマ7世の治世期に絶対君主制から立憲君主制に移行、1946年から現在に至るまでラーマ9世が治めている。
 同君は、名君としてタイの中で絶対的な支持を集めており、国全体の求心力として機能している。
 2006年の軍事クーデターの後、軍部が同君にひざまづいて状況報告を行ったシーンは実に象徴的だった。
 このクーデターの経緯は、外務省HPより引用するに以下の通りである。
 ・・・2006年2月、首相批判の高まりを受け、タクシン首相は下院を解散。4月、主要野党ボイコットのまま下院総選挙が行われたが、後に司法当局は選挙を違憲・無効と判じた。9月、陸軍を中心とするクーデターによりタクシン政権が倒れた後、スラユット枢密院顧問官が暫定首相に就任。暫定政権の下、新憲法草案の起草が進められている。

 昨年末の爆破事件もあり、昨年はタイにとって不穏な出来事が続いた年といえる。
 首都バンコクは2007年早々に平穏を取戻しており、何ら治安の悪化を感じる要素は無かったが、注意するに越したことはないということなのだろう。


今尚垣間見られるヒンドゥー的要素

 国民の殆どが仏教徒であるタイだが、ヒンドゥー教の影響が色濃く見られる。

・ まず、国鳥が、ヒンドゥー神話に登場するガルーダである
・ 仏教寺院に何食わぬ顔をしてヒンドゥー神ガネーシュがいたりする
・ ブッダがナーガ(蛇、ヒンドゥー神話にしばしば聖なる動物として登場する)と一緒にいる場合がある。
・ インドの2大叙事詩の1つ『マハーバーラタ』の話がそのままタイでも流布されている

 これは、恐らく古くはヒンドゥー教(まだバラモン教と言っていた時代)を進行したクメール王朝の影響、更にはアユタヤのラーマーティボーディ-王が定めた王国の基本法典にインドの要素が盛り込まれていたことなどに因るのだろう。
 そもそも、タイ国王の呼称「ラーマ」だって、インドの神様の名前だ・・・何か関係あるのだろうか・・・?


 →第95回旅行記「バンコク」
by bharat | 2007-01-24 10:30 | インド周辺国ぶらり旅
第79回旅行は、歴史ある新興都市プネー
e0074199_733577.jpg ムンバイから南東に約150km、高速道路を使って丘陵を越えると、一際大きな高原都市が出現する。
 プネー(Pune)だ。


昔の激戦地は、今や一大産学都市
 ここプネーは、日本で言うところのつくば市のような都市だ。
 標高500mの丘陵特有の涼しい気候、インド最大の産業都市ムンバイから距離が近いことなどの要素があったので、大学や産業が数多く位置しており、都市全体が産学一体となって発展している。
 人口は約400万人で、インド全土のトップ10に入る多さ。

e0074199_7543151.jpg そんなこの都市には、今でも至るところに城壁が残っている。
 プネーは、17世紀に興ったマラーター王国の拠点だった。ムガル帝国が第5代シャー・ジャハーンの治世期にその影響力を弱めるや、南インドの諸勢力は抵抗を開始、その筆頭勢力がシヴァージー率いるマラーター族だった。彼は1599年にプネーの太守を努め、その後同地を本拠として勢力を拡大、1674年にはライガール(Raigarh)で正式に王を名乗った。
 その後、1680年にシヴァージーが没すると、第6代皇帝アウグランゼーブ率いるムガル帝国は南征を開始、この一帯はマラーターvsムガルの一大戦地となった。
 劣勢だったマラーター国は、この頃その実質支配者を王からバラモン階級宰相(ペーシュワー)に代え(この頃からマラーター同盟と名を変える)、ムガルのアウグランゼーブ帝の没後、勢力を盛り返しに掛かる。
e0074199_6354853.jpg 他方、アウグランゼーブ亡き後のムガル帝国は、諸侯の離反、ペルシャ・アフガン勢力に侵攻され、デリーも陥落する有様。ムガル帝国は、一部領土の譲渡を約束に、マラーター同盟に援軍を請うた。こうして、ムガル・マラーター連合vsアフガン勢力アフマド・シャーの戦いが1761年に起こった(パーニーパットの戦い)。
 結果は、ムガル・マラーター連合の大敗。その後、マラーター同盟は当時支配力を強めていた英国の傘下に入った。

 話が長くなったが、このような歴史の影響で、街中には今でもマラータ王国・同盟時代の要塞や城壁が残り、初代王のシヴァージーも今尚厚く信仰されているのだ。



歴史ある城塞・寺院が見どころ
 このような歴史のあるプネーは、宗教色と軍事色が織り交ざった街並みが特徴的。

シャニワール・ワーダー(Shaniwar Wada)
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e0074199_6363288.jpg 上に述べたペーシュワーの第2代バージー・ラーオが1736年に建てたもの。
 ヒンディー語で「土曜日の宮殿」という名だが、宮殿というよりは要塞の体を成している。
 城壁の前は広い庭園になっており、シヴァージーの像が立っている。


パールヴァティ・ヒル(Parvati Hill)
e0074199_6423038.jpg 市の南西のはずれの小高い丘。
 微妙な傾斜が疲れを倍増させる階段をひたすら登ると、寺院群が見えてくる。
e0074199_643448.jpg 中心のパールヴァティ寺院の入口で靴を脱いで門をくぐると・・・
e0074199_6453143.jpg 立派な本堂が目に入ってくる。
 建設は18世紀中頃と言われ、勿論パールヴァティ(シヴァ神の奥さん)
の名が示す通りヒンドゥー寺院なのだが、形状はどこかイスラム建築っぽい・・・ハイデラバードのチャールミナールに似ている。
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本尊の中には、パールヴァティもいるが、旦那のシヴァのリンガ(男根)の像もある。
 ・・・が、何故か顔が。
 なんぢゃこれは。
e0074199_65715.jpg 本堂脇の壁画には、シヴァ一家の絵があるのだが、シヴァの容貌が一般的な姿ではなく、マラーターの王シヴァージー似になっている。
 王の神格化ということか。


ダガダシェートガナパティ寺院(Dagadushethganapati Mandir)
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e0074199_772128.jpg 舌を噛みそうなくらい長い名前だが、要はガネーシャ寺院。
 全インド的に有名なガネーシャ寺院で、ガネーシャ祭りの頃には参拝者でゴッタ返すらしい。
e0074199_7122626.jpg カメラ禁止だが、本堂には巨大で純白のガネーシュ像が鎮座している。


ウィシュワスト・ダット寺院(Wishwast Datt Mandir)
e0074199_7154823.jpg 由緒ある寺院っぽいのだが、御覧の通り大改築の真っ最中だった。
e0074199_7165166.jpg 中の神様は、そのままだった・・・退避させずに改築しちゃうのだろうか・・・?


その他の寺院
e0074199_7184212.jpg この他にも、沢山のヒンドゥー寺院が街の中に実によく溶け込んでいる。
e0074199_72486.jpg そんな街の一角の金物屋の前で、店のオジサンが何やらカンカンと金物食器を叩いている・・・板金?
e0074199_726555.jpg !!・・・ヒンディー語を彫っていた。
 結婚祝いに、新郎新婦の名前・日にちを彫っているのだそうだ。
 日本でたまに貰う、引き出物みたいなものか・・・但し、これはあげるのではなく、自分達で使うもののようだが。


 
オススメ度(100%個人主観)

    ★★☆☆☆ ・・・ 観光地というより避暑地


観光所要時間

    約3時間
by bharat | 2007-01-15 10:30 | インドぶらり旅