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ギネスに載ったインドの食材とは??

 皆さん、最近日本のコンビニでこんな商品を見かけたことは無いだろうか?

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 「暴君ハバネロ」よりも辛いという触込みの、このジョロキア。
 実は、インド産唐辛子である。

 一般的に、ナガ・ジョロキアとかブート・ジョロキアと呼ばれるこの唐辛子は、文字通りナガランド(関連旅行記はコチラ)原産といわれている。
 因みに、「ブート」はヒンディー語でお化けという意味・・・化け物のような辛さということなのか。

 このブート・ジョロキアは、その辛さが世界一ということで2007年2月にギネスに登録された。実際にギネスに登録されたのは、ナガランドの隣州アッサム(関連旅行記はコチラ)で採取されたもの。
 ギネス記録時のサンプルの辛さを示すスコビル値は、1,001,304。
 これがどれだけ凄いかというと、タバスコグリーンソースで600~1200スコビル、ハバネロで100,000~350,000スコビル、催涙スプレーは2,000,000スコビル・・・ハバネロの約3~10倍の辛さで催涙スプレーに迫る辛さということである。
 ちなみに、測定値の元となるカプサイシンの100%値は16,000,000。

 過日、この唐辛子を試す機会があったのだが、ほんの爪の先くらいを舌の上に乗せただけで、火傷の様な症状が出て、それからは水を飲もうが他の食べ物で誤魔化そうが激痛で涙が止まらなかった(症状は実に1~2時間も続いた)。
 このお菓子はそんなに辛くはない。

 ブート・ジョロキアの活用方法。
 辛いお菓子に使うだけではない・・・というか正確には食用以外の活用方法のほうが広いのではと思われる。
 唐辛子の主成分であるカプサイシンは、鎮痛薬としての活用が研究されている。
 唐辛子から採取されるカプサイシンの量は、当然その多寡を示すスコビル値が大きい程多くなる。
 スコビル値の高い唐辛子からの方が効率的にカプサイシンを採取出来る訳だ。

 医薬業界の方、一度ブート・ジョロキアを検討しては如何?
by bharat | 2007-10-15 10:30 | インドB級グルメ
第93回旅行は、ナガランド州の商業都市ディマプール
 この2枚の写真。
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 日本のものと間違えそうになるが、実はインドで撮ったもの。
 インドの東の最果て、ナガランドで撮ったものだ。

 デリーで開催された州別博覧会IITFで初めて関心を持ったナガランド州。
 第93回~94回は、ナガランド旅行記(第94回はコチラ)。


ナガランド州の歴史
 この州は、インドの東端に位置し、ミャンマーと国境を接している。
 ここには、現在16の部族が共存しており、インド中央政府ともうまく折合いをつけながら平穏が保たれているが、この平和な状態が訪れたのは、ここ10年くらいのことだ。
 かつてこのあたりの山間部族は首狩族として周辺地域とは明らかに異なる生活習慣をもっていた。戦争によって捉えた捕虜の首をはね、五穀豊穣の生贄として捧げるという、一種の自然崇拝を行っていたのだ。
 その後、英国の占領政策によって、その殆どがキリスト教に改宗させられた。


 第2次世界大戦期に入ると、この一帯は英国軍と日本軍の支配領域のボーダーラインとなる。
 日本軍の「インパール作戦」(当時占領下にあったビルマから西になだれ込み、インドの反英勢力と合流し戦局の打開を図ろうとしたもので、結局は大失敗におわった)により、日本軍はナガランド一帯にも侵攻。当時のナガランドを纏めるピゾ(のちのナガ民族評議会(NNC)議長)は、日本軍の後押しを受けたチャンドラ・ボース自由インド政府軍と協調路線を執った。

 日本軍は敗退したが、ピゾはチャンドラ・ボースから「インドが英国占領から解放された際にはナガランドの自治を認める」との約束をしていた。
 チャンドラ・ボース亡き後のインド独立の中心人物マハートマー・ガンディーに対し、NNCはナガランド独立を持ちかけるが相手にされず、ナガランドは1947年8月14日(インド独立の前日)、ナガランドの独立を一方的に宣した。


 インドのナガランド平定政策が本格化する中、東パキスタン(現在のバングラデシュ)の後押しを受けたナガランドは態度をますます硬化させ、1956年にはナガランドはまたも一方的に連邦政府の樹立・独自の憲法制定を宣言する。
 しかし、当の東パキスタンがインドの助力によってバングラデシュとして独立すると、後ろ盾を失ったNNCは急速に力を失う。各部族間で温度差があったものの、最終的に1975年、インド憲法の受入をして独立を完全に断念した(シロン協定)。


e0074199_18374666.jpg 最後まで独立を諦めない急進派は、ナガランド民族社会主義評議会(NSCN:National Socialist Council of Nagaland)などを組織。
 ミャンマーにいるナガ族の領域までも含んだナガリム(Nagalim)建国を求める過激な思想まで出てきた。
 だが、組織内の抗争によって徐々に勢いを失ったNSCNは、1997年インド政府と停戦協定締結、以降ナガランド州には平穏が戻った。


観光に力を入れているというものの・・・
e0074199_110892.jpg ナガランド州も他の州と同様に、観光客の誘致に力を入れているようだ。
 デリーでも、州別物産街などでナガランドの店舗を見かけることがある。
 また、ナガランド州観光事務所に行けば、観光地図を貰うことも出来る。
e0074199_115511.jpg がしかし、ガイジン観光客がナガランド州に気軽に足を運ぶには、まだまだ多くのハードルがある。
 まず、手続面。
 ガイジンは、ナガランド州に入るには事前に州政府の許可証(入域許可証)を取付ける必要がある。
 手続自体は、左程面倒くさくないのだが、申請から許可証発行まで結構時間がかかる・・・私の場合は1ヶ月くらいかかった・・・書類を受取ったのは旅行出発前日だった。
 次に、物理的なアクセス難。
 ナガランド州には、空港・鉄道駅が1つしかない。
 州の西端に位置するディマプールがそれなのだが、空路は近隣空港(アッサム州グワハティと西ベンガル州コルカタ)から小さなプロペラ飛行機が飛んでいるのみ。
 あとは、舗装率の高くない山間道路しかないのだ。


 ナガランド州が観光客で賑わう日は、まだまだ遠そうだ。


初体験! たった1人のための飛行機
 今回の私のアクセスルート。

 往路:デリー(5:30)→(Indigo便)→(7:50)グワハティ(9:45)→(Alliance Air便)→(10:35)ディマプール

 復路:ディマプール(12:25)→(Alliance Air便)→(14:25)コルカタ(19:10)→(Indigo便)→(21:00)デリー

 Indigoは、数年前に業界に入ってきた新鋭航空会社。
 早朝・夜間ダイヤによる空港使用料金節約、ニッチ路線展開による過当競争回避、ネット予約体制、全席エコノミー、機内食ナシ(サンドイッチ(75ルピー)・缶飲料(25ルピー)等は別途機内で購入可)と徹底した低コスト戦略で、今まで金銭的に飛行機に乗れなかった人たちも客層に取込んでいる。
 Alliance Airは、Indian Airの子会社で、ニッチ路線を受け持っている。元国営会社がコストカット目的で子会社化したということもあり、サービスは国内でも最低レベルだ。


 で、グワハティから乗ったAlliance AirのCD7751便。
 空港でチェックインした際、定刻通り出発する旨聞かされていたのだが、いつになっても掲示板に便名が出てこない。
 ようやく、構内アナウンスで便名を呼ばれ、セキュリティチェック。

 ゲート前で暫らく待っていると、軍人(グワハティ空港は軍港なので、軍人が警備・案内をやっていたりするのだ)がニコニコしながらやってきて、「ディマプールに行くのって、あなた?」と聞いてきた。
 そうですが・・・と答えると、全く予期せぬ答えが。

 「今日の乗客、あなただけだから☆」

 !!! なんと・・・恐るべき赤字路線だったのか。
 
e0074199_12581429.jpg ゲートから、10~20人の軍人が、色々話しかけながら、飛行機まで同道してくれる。
 ・・・はたから見たら、政治犯の移送みたいなんだろうな。

 彼らとても良い人たちで、離陸するときまでずっと手を振って送り出してくれた。
e0074199_12595768.jpg 当然、機内は関係者以外乗ってません。
 ・・・ガラ~ン。
e0074199_1333859.jpg 最前列は、変なシートアレンジ。
 いざ、好きな座席に座って、キャビンアテンダントの緊急時対応のインストラクションを受ける。
 客は私しかいないのだが、絶対にこちらを見ないキャビンアテンダント・・・誰も居ない機内後方を見ていた・・・誰に対して説明してるんでしょうか?
e0074199_1363979.jpg 殆どカラの機体は、発車してからものの数秒で離陸。

 45分のフライトだったが、一応機内食もサーブされる。
e0074199_1381536.jpg 定刻より少し遅れて、旅行客が1人もいないディマプール空港に到着。


見どころ① カチャリ王朝の遺跡
 ディマプールの見どころの1つは、中世にここを統治していたカチャリ族の遺跡。
 ディマプールの都市名も、この民族の言葉「ディ(川)」+「マ(大きな)」+「プール(町)」から来ている。川は、この一帯を流れるダンシリ(Dhansiri)川を指している。
 カチャリ族について、詳しいことはあまり分かっていないが、現在のアッサム州・ナガランド州・マニプール州あたりにいた民族のようだ。
e0074199_13282653.jpg 入口の城壁は後付けだろうか。
 入場料などは特に無く、あっさり入れる。

 中はだだっ広い野原になっており、奥方に遺跡が点在している。
 一部の資料では、男根を模した彫刻物との説明がある。
 タントリズムのような信仰があったのだろうか?
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e0074199_13485886.jpg 遺跡とは全く関係無いが、敷地内の池では、男の子たちが素手で魚を獲っていた。


見どころ② 土曜市場
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 この土曜市場が興味深かった。
 ナガランドの人たちは、その食生活が特徴的なことでも有名で、生きとし生けるもの全てを食の対象としている。
 売られる食材は実にバラエティに富んでおり、野菜など普通の食材のほかに、

e0074199_13532110.jpg カエルに・・・
e0074199_13533931.jpg 芋虫に・・・
e0074199_1354586.jpg 犬・・・。

 朝一番でここに来れば、レパードなどの珍食材なども売りに出ているのだそうだ。
 

オススメ度(100%個人主観)

    ★★★★★ ・・・ インドぢゃないインド(?)を体感出来る場所

所要観光時間

    1~2時間
by bharat | 2007-05-19 10:30 | インドぶらり旅
第84回旅行は、谷あいの村カリンポン
 ダージリン・グームから、車で東方面に約3時間。
 ダージリンと相対する尾根に広がる集落カリンポンがある。

2100→0→1250
e0074199_20321194.jpg 標高2,100mのダージリンから標高1,250mのカリンポンへは、一旦両都市を結ぶ谷を一気に下って、そこから一気に登っていくしかない。
 結構な山道なのだが、現地の人々はジープにしがみ付きながら、移動していた。
谷底を流れる川を見渡せる展望場所があり、近辺の複雑な地形を実感できる。
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e0074199_20341813.jpg 目を凝らして川面を見ると、ボートが。
 ここは、ラフティングの名所なのだそうだ。
 安全管理面はどうなのだろう・・・。


街の様子・見どころ
e0074199_20534751.jpg 街の様子はこんな感じ。
 ダージリンに少しいた、顔の濃いインド系の人々は、ここカリンポンには全くいない。
 全員、アジア系の顔をしている。


パインビュー(Pine View)植物園
e0074199_20551317.jpg 山の中腹あたりにある。
e0074199_205733.jpg 何故か、大量のサボテンを栽培・展示している。
e0074199_20574273.jpg ここは本来の植物園としてよりも、ここからの眺望の方が有名らしい。
 運転手が頼んでもいないのに、強く来ることを薦めたのもうなずける。

ゾン・ドク・ペリ・ニンマパ・ゴンパ(Zang Dhog Phelri Nyingmapa Gompa)
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e0074199_21251040.jpg 入口付近にシュールな胸像(基金の関係者らしい)のあるこの僧院(ゴンパ)、ドゥルピンの丘という一際高い場所に建っている。
 1976年建立と新しい。
e0074199_21274726.jpg 中の仏像も立派で、
e0074199_21271076.jpg 外には小さな仏塔(ストゥーパ)が整然と並んでいる。


マンガル・ダーム(Mangal Dham)
e0074199_21305811.jpg クリシュナ神を祀る寺院。
 恐らくこの一帯では少数派であろうヒンドゥー教徒たちの日々の祈りの寄りどころになっているようだ。


グラハム邸
e0074199_2134037.jpg スコットランド人宣教師のグラハム氏の邸宅および孤児院・学校施設。
 赤い屋根のかわいい邸宅を進むと、
e0074199_21343925.jpg 丘の上には、一見インドでは無いような風景が広がっている。
 これは、孤児の居住場所であったり、学校であったりする。
e0074199_2136154.jpg 立派な教会もある。


御当地料理
 ここにはちょっとした御当地料理が存在する。

チベット料理
e0074199_21374535.jpg 意外と少ないのが、チベット料理を出す店。
 このGompu'sは数少ないチベット料理店。
 トゥクパ(チベットラーメン)とモモ(チベット餃子だが、ここのは肉まんみたいな皮だった)
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カリンポン・チーズとカリンポン・キャンディ
e0074199_21414913.jpg カリンポンでしか買えないものがここLark'sで売っている。
e0074199_214288.jpg カリンポン・チーズ。
 製法が他のチーズとどう違うかは分からないが、味はアッサリしていて臭みも無い。
 美味☆
e0074199_2143243.jpg カリンポン・キャンディ。
 沖縄の黒糖飴とクッキーをこねたような味で、これまた美味☆




オススメ度(100%個人主観)

    ★★☆☆☆ ・・・ チーズとキャンディ以外は特徴的なもの無し

所要観光時間

    2時間
by bharat | 2007-05-05 10:30 | インドぶらり旅
【州別観光事務所3】アーンドラプラデーシュ・ハウス
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 デリー門のすぐそば、Ashok Roadにあるこの事務所。
 アーンドラ・プラデーシュ(Andhra Pradesh)州の出張事務所になっており、観光情報や風土料理を出す食堂などを備えている。

e0074199_20415270.jpg 建物内には、観光をアピールする看板がいくつかあるが、

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 一際目を惹いたのはコレ。
 サイババの家と思われ、ハッキリ言って何のアピールなのか分からない・・・サイババの住む州アーンドラ・プラデーシュ♪ とでも言いたいのだろうか・・・?


 さて、アーンドラ・プラデーシュ州についてだが、州都ハイデラバードを旅行した際に詳しく記したので、そちらを参照して欲しい。


 今回ここを訪れたのは、ここが美味しい御当地料理を出すとインド人の友達に聞いたから。

e0074199_20474751.jpg その食堂、様子はこんな感じ。
 地元のヒトだか職員だか分からないが、結構な賑わいを見せている。
 昼のメニューは、Veg(肉ナシ)・Non-Veg(鶏/羊/魚)から選ぶ。
 料金は全部Rs60-(約180円)/人。
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e0074199_20534581.jpg これが結構美味い。
 食器などは決して綺麗ではないし、店員は殆ど英語NGだが、味はマル。
 アーンドラ・プラデーシュ特有の激辛な味付けがちゃんとされている。

 因みに、ボーイがカレーを持ってグルグル徘徊しており、断らないとワンコ蕎麦のようにガンガン皿にカレーを盛ってくるので注意。

by bharat | 2007-04-27 10:30 | デリー市内あれこれ
B級グルメ6 シャバレ
 しばらく、このカテゴリの存在を忘れていた。
 2005年11月以来の「インドB級グルメ」。

6. シャバレ
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 元々は、チベットなどから来ている料理らしいが、インドでも食べられる。
 恐らく北部出身の人たちが作っているものと思われる。

 簡単に説明するとすれば、「中身がギョーザのミートパイ」。
 外皮はサクサクに揚げてあり、中身は豚肉ミンチとタマネギ(香草も少し入っているかも)。
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 一個20~30ルピー(60~90円)で、とても美味しい。
by bharat | 2007-04-25 10:30 | インドB級グルメ
第62回旅行は、インドブームの火付け役バンガロール
 今回は、カルナタカ(Karnataka)州を周遊。
 インド南西部に位置するこの州は、州都バンガロール(Bangalore)を中心とする州内南部と、州内北部で全く様子が異なる、興味深い地域だ。

 まずは、州都バンガロールから。

マイソール王国の英雄ティプー・スルタン

 バンガロールが歴史上脚光を浴びるようになったのは、そう昔ではない。

 1537年に、地方領主であったケンペイ・ガウダがこの標高900mの高原に城郭を築いたのが始まり。

e0074199_1725328.jpg その後バンガロールは、南西140kmに位置するマイソール(Mysore)王国の支配地となり、同国の王ティプー・スルタン(Tipu Sultan、1750生~99没、在位1782~99)が18世紀末にバンガロールの大整備を行った。

 このマイソール王国は、ハイダル・アリーとその子ティプー・スルタンの親子2代に亘る英雄譚が有名で、特に計4回にも亘ってイギリス東インド会社と戦ったマイソール戦争が際立っている。
 前の2回(第1次 1767~69、第2次 1780~84)はハイダル・アリー在位時に、後の2回(第3次 1790~92、第4次 1799)は、ティプー・スルタン在位時に行われたが、ティプー・スルタンは王子在位を含めると、全4回の戦争に参加している。

 ハイダル・アリーが権謀術数で乱世を潜り抜けたタイプだったのに対し、息子のティプー・スルタンは理想を掲げてイギリスと戦うタイプだった。
 父が一介の傭兵から王になったのに対して、ティプーは生まれながらの王であり、若くして帝王学を学び、敬虔なイスラム教徒、インドの複数の言葉、ペルシャ語、アラビア語も堪能だったという。イギリスに屈しない、また旧態依然としたムガル帝国に固執しない、中央アジアや欧州との独自の外交政策を軸としたアイディアを持っていた。
 イギリスとの宥和政策を採ることは考えず、近隣諸国がイギリスの軍門に下る中、徹底抗戦を完遂、フランスやトルコからの援軍を望めないことになり、近隣の大国ハイデラバードもイギリスに下ると四面楚歌状態となり、1799年の第4次マイソール戦争で玉砕、陣没する。

 彼が、今尚、父以上にフリーダム・ファイターとしてインド人から崇拝されるのは、上記の様な潔い生き様故と思われる。

e0074199_19533517.jpge0074199_19534542.jpg この親子の生き方、日本の真田昌幸・幸村父子と似ていないだろうか。1代で、武田家の家臣から大名にのし上がった策士昌幸と、徳川家に寡兵で挑んで「真田日本一の兵なり」と讃えられて戦死した幸村。何処の国にも、似た歴史が存在するものなのかも知れない。

 さて、話を戻すと、マイソール王国は19世紀に入り、マイソール藩王国として残存、元の支配者であったウォデヤール家が代々の藩王を務めた。彼らの行政手腕は高く、インド独立後も最後の藩王がそのまま最初の州知事になったほどだ。
 その後、言語をベースに州境が変更され、1956年にマイソール州、1972年にカルナタカ州となった。この関係で、現在もこの州の2/3はカンナダ語を話し、ウルドゥー語(10%)、テルグ語(7.4%)と続く。



市内の様子
e0074199_2032172.jpg 空港に着くと、プリペイド・タクシーでバンガロール市街へ向かう。空港と市街は10km弱離れているのだ。
e0074199_2052073.jpg 市内は活気付いており、英語の看板も多い。子供向けの施設などもあった。
 日本のTVなどに出てくるシリコンバレーは、この市街地から20~30km離れたところにあるのだが、だからといって市街地が寂れているという訳ではない。



市内の見どころ

 上述したように、ここバンガロールは、歴史上は、マイソール王国の防衛線上の一都市に過ぎなかったので、観光すべきところは少ない。

ティプー・スルタン宮殿(Tipu Sultan's Palace)
e0074199_21181253.jpg この木、石、モルタルで造られた宮殿は、1781年にハイダル・アリーが建設を始め、10年後にティプー・スルタンが完成させた。
 茶色と黄色の色鮮やかなコントラストは、最近復元されたもののようで、当初からこのような配色だったかどうかは分らない。
e0074199_21182520.jpg 因みに、10分くらいで見終わってしまうこの建物、入場料がRs100-(約260円)とベラボウに高い(例によってインド人ならRs5-で見られる)。
 これだけカネを取ってれば、綺麗に色も塗れる訳だ。



ヴェンカタラマン寺院(Venkataraman Mandir)
e0074199_21274833.jpge0074199_2127289.jpg ティプー・スルタン宮殿の隣にあるのが、この寺院。造りは、南インドに典型なドラヴィダ様式(本堂は低層かつ小さく、これを壁で囲んでその入口の塔門(ゴープラム)を巨大に飾る建築様式)になっており、色も鮮やかだ。
 18世紀に、ハイダル・アリーがこの地方を支配する前のウォデヤール家が建てたもの。



ウシ寺(Bull Temple)
e0074199_21332241.jpg 文字通り、ウシを祀った寺。
 シヴァ神の乗物ナンディを祀っているのだが、どうみても脇にあるシヴァ神を祀った寺院(後述)よりも目立っている。
 入口には、鳥居ならぬツノ・・・地面からニョキッと生えている。
e0074199_213626100.jpg この寺院も、ドラヴィダ様式で、16世紀にバンガロールの地方領主だったケンペイ・ガウダが建てたものと言われている。
 本堂入口には、ナンディをセンターに、色々な神様の派手な彫刻が。
e0074199_21374073.jpg 本堂に入ると、突き当りにドドォ~ンと巨大ナンディが!
 御影石の一枚岩から彫られたというこのナンディ、僧侶との比較でも分かる通り、相当デカい。
 そして、何故かメンタマグリグリ。
 回廊型になっていて、ナンディの周囲を歩いて周ることが出来る。



e0074199_2150256.jpg あ、そうそう、忘れてましたが、隣の敷地にはナンディの御主人様、シヴァ神の寺院もあります・・・冴えないですが。



ラールバーグ(Lalbagh)
e0074199_21515716.jpg そのまま、訳すと「赤い庭園」。
 赤いダリアが有名みたいなので、それが庭園名の由来なのかも知れない。
 因みに、このダリア、メキシコ原産(今でもメキシコ国花)で、18世紀にスウェーデン植物学者ダールさんがヨーロッパでの繁殖に成功、彼の名を採ってダリアになった。ナポレオン皇帝妃ジョセフィーヌがこよなく愛したこの花は、ヨーロッパ中で大流行した。

e0074199_2232169.jpg インドには・・・やはりイギリスやオランダ経由で入ってきたのだろうか。
 この花、和名はなんとテンジクボタン(天竺牡丹)。

 だが、行ってみての印象は、緑が綺麗な巨大な庭園・・・赤いダリアは見なかったような気が・・・。
 しかも・・・それだけ(緑が綺麗なだけ)で何も見るもの無し。


e0074199_4322030.jpg 切り株の化石も仰々しく飾られているが、別に、ね...。
e0074199_4342425.jpg 面白かったのは、公園内の動物の置物の目が、全てどんぐりまなこだったこと。
 ライオン、ウシ、ゾウと、みんな揃って何故かビックリ顔なのだ。
 
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e0074199_1034421.jpg これは、インドを象徴する絵。
 ゴミ箱が目の前にあるのに、みんな下にゴミを棄ててしまう。このあたりのマナーは、日本も酷いと思うが、こちらインドも御世辞にも良いとは言えない。清掃を生業とするカースト者が存在するから、上位カースト者は別にゴミを自分で処理する必要が無い・・・という歴史的原因の一端と見るのは多少大袈裟かな。


ウェンカテーシュワラ寺院
e0074199_4411296.jpg 市の中心にある、何の変哲も無い寺院。18世紀頃の建築らしい。

e0074199_4444821.jpg と、寺院の中から大音響の打楽器音が。
 結婚セレモニーが丁度始まったところで、これから花婿が花嫁を迎えに行くようだ。訳も分からず、群衆の中に交じると、1人が祝い菓子のようなものをくれた。
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ヴィダーナ・サウダ(Vidhana Soudha)
e0074199_4571158.jpg 市西部の官庁街で一際目立つのが、この横長の建物。
 1954年に建てられたこの建物は、州政府および州議会の庁舎として機能している。
e0074199_4573563.jpg長い建物の中央部分には、インド国旗が掲揚され、天井にはアショカピラーが。なかなか存在感のある立派なデザインだ。


高等裁判所
e0074199_50342.jpg ヴィダーナ・サウダの真向かいにあるのが、この真っ赤な建物。
 高等裁判所として機能している。


バンガロール宮殿(Bangalore Palace)
e0074199_55535.jpg この東京ネズミーランドにある様な建物は、英国植民地時代だった1880年に建てられた、ウィンザー城のレプリカ(ミニチュア?)。とはいっても、だだっ広い敷地内に堂々と建っており、雰囲気がある。

e0074199_5185879.jpg 何か催事をした直後だったようで、色んな大道具が散乱していた。
 ここは、写真撮影禁止のようで、この写真を撮った直後、守衛数人が笛を吹きながら、凄い形相でBダッシュしてきたので、早々に退散した・・・。



オマケ
e0074199_5242653.jpg デリーの友人に聞いて、「播磨」なる日本食レストランに行ってみた。
 ・・・美味い。
 ・・・そして安い。

 デリーではありつけない、上レベルの牛肉を食わせてくれた。
 ここバンガロールは、イスラム教徒の人口が多いので、牛肉が流通しているのかな?




オススメ度(100%個人主観)

   ★★★☆☆ ・・・ シリコンバレーとしてではなく歴史的視点から一度観ておくべし


所要観光時間

   3時間
by bharat | 2006-06-05 10:30 | インドぶらり旅
【州別観光事務所1】シッキム・ハウス

 ここ首都デリーには、インド各州の出先事務所があり、この事務所が観光誘致などを行っている。これらの事務所は、「×××・ハウス」という名で呼ばれている。
 事務所には、観光資料が置いてあったり、州の特産品販売所、州ゆかりの食べ物を出すレストランがあったりする。

 今回、行ったのは大使館街付近にある、シッキム・ハウス。
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シッキム州って?

 西ベンガル州の北に位置し、東南をブータン、西をネパール、北を中国チベット自治区に接する。
 域内で話される言語は、ネパール語。

 今日現在、入域には事前許可が必要だが、他の北東諸州と比較すると、許可がおり易いようだ。


 元々この地域は、アッサム・ビルマ(現ミャンマー)・チベット等チベット仏教信者が逃げ集まった場所だ。
 17世紀には、チベット仏教王国として確立した体制が敷かれた。
 一時期は、北は現中国チベット自治区、西はネパール、南はダージリン地方、東はブータンに至る広大な版図を有していた。

 19世紀に入って、英国東インド会社の影響力が強大化すると、1835年シッキム王はダージリン地方を割譲して東インド会社の庇護下に入った。1861年、同地域は英国の保護領となった。
 この出来事は、チベットやシッキム内から猛烈な反発を誘発。特にチベットは、シッキムを属国と見做しており、チベットはシッキムを奪還すべくたびたび進軍するようになる。シッキムはチベットvs英国の戦場となっていく。
 加えてこの頃、チベットとビルマの領有については、英国と清(中国)との間で揉めており、1886年締結の条約では、英国がビルマを、清がチベットを支配下に置くことが決まった。
 翌1887年、チベットはシッキム国境に検問所を配するが、これが国境の緊張を助長、1888年、英国軍は同地域に侵攻を開始する。ルントゥルの戦いで、チベット軍は大敗し、英国―清間で再度チベットに関する条約締結され、英国はシッキムに対する領有権を確固たるものとした。

 1947年のインド独立以降1975年までは、シッキムは独立した王のいる国だったが、1975年の国民投票でインドに併合されることが圧倒的大差で承認され、以降インドの一州となる。

 また、歴史的背景から、現在でも隣国ブータンと密接な関係を持っており、現在でも一般民衆から王族に至るまで姻戚関係を持つケースが多い。


レストラン・土産屋

 建物内部、ロビーの奥にはレストランがある。
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 値段は安くて、なかなか美味しい料理を出してくれる。
 シッキム料理だけではなく、チベット料理、中華料理とのミックスといった感じ。
 しゃぶしゃぶ鍋を使った肉・野菜の料理もなかなか美味。
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 土産屋もあったが、壁掛け・テーブル・絨毯がメイン。
 モノはそこそこだが、値段は御世辞にも安いとは言えなかった・・・早々に退散した。



 大使館街(Chanakyapri)やインド門付近には、この手の州の出先事務所があるのだが、全てこんな感じなのだろうか?
 時間があるときに、色々回ってみるとしよう。
by bharat | 2006-03-07 10:53 | デリー市内あれこれ
第34回旅行は、ムガルゆかりの地パーニーパット
 デリーを北に向かう国道1号線を北上、ハリヤナ州都チャンディーガルに向かう途中、何気無く通り過ぎてしまう、何の変哲も無いT字路がある。
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歴史的合戦の名勝

 ここパーニーパットは、歴史上とても重要な場所だ。

ムガル発祥のきっかけ

 16世紀中盤まで続いた奴隷王朝の時代・・・。
 奴隷王朝最後のローディー朝と、アフガニスタンの新興勢力バーブル軍とが1526年、ここで対決した。
 結果はバーブル軍の勝利・・・同年、バーブルは自勢力をムガル帝国を称し、ここに1858年まで続くムガル帝国が誕生する。
 バーブルは、ムガル帝国初代皇帝となった。

 因みに、1530年跡を継いだ2代皇帝がフマユーンだ。
 デリーにフマユーン廟がある。


ムガル隆盛のきっかけ

 その後すぐ、ここは再び戦場となる。

 1556年、ムガル第3代皇帝アクバルが、当時デリーを占拠していたスール朝へームーと戦い、これを破った。これによって、ムガル帝国の北インドでの勢力圏は大きく広がり、その支配力も確実なものとなった。


ムガル滅亡のきっかけ

 三たび、ここは戦場となる。

 18世紀、インドでの支配力を失いつつあったムガル帝国は、アフガニスタンから進入してきた新勢力に抗しきれなくなっていた。
 1776年、アフガニスタンの王アフマド・シャーがインドに攻込むと、第15代ムガル皇帝シャー・アーラム2世は単独での防衛は無理と判断、近隣勢力であったマラーター同盟(※)と共同戦線を張って対抗する。結局、この戦いはアフマド・シャーの勝利に終わるも、痛み分けのような格好になり、アフマド・シャー軍もアフガニスタンに退却する。この間隙を突いて、英国軍が入り込んでくることとなった。

(※)マラーター同盟とは、インド西部から興った勢力で、敬虔なヒンドゥー信仰をベースとし、当時としては珍しく給与制の常備兵隊を抱えて、時期を問わず戦争出来る特性を持っていた。
 この特性は、日本の戦国時代の織田信長が敷いた軍事組織と似ており、半兵半農の軍事組織よりも自由な軍事戦略を採ることが出来た。
 18世紀頃からバラモン階級のペーシュワー宰相が実験を握るようになった。そして、元は配下だった諸侯が自力を付けてきたことから、主従関係は、ペーシュワーを盟主とする同盟関係となった。
 これをマラーター同盟と呼んだ。


今は、漬物の名産地

e0074199_821384.jpg 現在、この町はアチャールという漬物が特産の、静かな町だ。

 町通りにアチャール屋が点在していた。
 ピクルスやマンゴーの漬物が有名だが、チェリーなどの甘露漬のような変わったものもある。

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オススメ度(100%個人的主観)

     ★☆☆☆☆ ・・・ 通り過ぎてしまうくらい何も無い
by bharat | 2006-02-05 10:12 | インドぶらり旅
第26回旅行は、英印激突の地ラクナウ
 以前、電車でデリーからヴァラナシに行った際、途中駅にラクナウ(Lucknow)があることを知った。高校時代、世界史を勉強していて、何となく記憶にあったんで、いつか時間を作って行こうと思っていた。
 今回、丸1日使って観て回った。


150年前の英印大激突の地

e0074199_201771.jpg ラクナウという名前、どこかで聞いたことあるなと思ってたら、世界史だった。僕のイメージは、英領インドにおけるイギリスの拠点の1つで、1857年のインド大反乱(セポイの反乱をはじめとするインド諸地域の反乱)で大きな戦いが行われた場所、である(詳細は後述)。

e0074199_2023848.jpg インド人には、ラクナウはウッタル・プラデーシュ州の州都で、汚職まみれの政治、北インド随一の公害発生地というイメージしか無いみたいだった。恐ろしく派手な門構えの州知事邸、分不相応に広大な敷地に颯爽と建つ役人の家々、正しい数値かどうか疑わしい有害物質の数値ボードなどなど・・・。
 街並みについては、道は綺麗に整備されていて、悪い印象は持たなかったけどな。


 さて、話は戻ってラクナウの歴史。

 元々、この地域はムガル帝国の支配下にあり、アワドと呼ばれていた。アワド太守は当然ムガル帝国の一配下に過ぎないが、18世紀に入ってムガル王朝が衰退し始めると、ときのアワド太守サーダド・ハーンは独立を目指すようになる。
 ところが、時代はイギリスの東インド会社がインドでの支配権をほぼ全土に広げつつあった頃(1757年のプラッシーの戦いで、インド植民化のライバルであったフランスを破っている)。アワド太守軍は、1764年にこの東インド会社軍と対決、手痛い敗北を喫した挙句、イギリスの監督下におかれてしまう。
 このような状況下にあっても、アワド太守は王国建設を諦めることなく、1775年遷都(当時の都ファイザーバードから立地の良いラクナウにシフトした)、1800年英国駐在官官邸(総督代理公邸とも言われる、イギリスとの懐柔政策の一環)などを経て、1819年にムガル帝国からの独立を宣してアワド王国を建てた。
 1856年、無能なアワド王ワーシド・アリ・シャーをイギリスがコルカタに追放、アワド王国は滅亡する。これが翌1857年のインド大反乱に発展、ラクナウの反乱軍は1858年に鎮圧されるも、前述の英国駐在官官邸などは壊滅的な打撃を被った。

e0074199_21494957.jpg 現在のラクナウは、インドにおける政治の実質権力を握るウッタル・プラデーシュ州の州都ということもあり、政治色が強い。立派な議事堂に、ゴージャスな政府関係者官邸、整備された道路インフラなど、とても洗練された印象を受ける。
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中世・近代・現代

e0074199_2120895.jpg この街での見所は、数は少ないが、色んな時代の建物があって面白い。
 タクシーを借り切って回った(750ルピー、約2000円)。写真は、運転手のラーケスさんと愛車のヒュンダイ・サントロ(何故か政府関係のナンバープレートをつけており、どこに駐車しても御咎め無しだった!)。

バラー・イマームバラ(Bara Imambara)
e0074199_2121935.jpg 文字通り訳すと、「バラー=大きい」「イマーム=指導者」「バラ=御堂」ってな感じ。旅行関連書籍などでは、イマーム記念大堂とか書いてあるが、意味不明である・・・。1784年、アサフ・ウドゥ・ダウラーの命によって建てられた御堂とその周辺建物群。設計者はキタヤトゥッラー。
e0074199_21393123.jpg 3階建ての巨大な丸屋根のホール・・・高さ16m、長さ47.71mは世界最大(らしい)。写真は、全体像とモスク。


チョーター・イマームバラ(Chota Imambara)
e0074199_21532915.jpg  文字通り訳すと、「チョーターー=小さい」「イマーム=指導者」「バラ=御堂」ってな感じ。正式名称をフサイナーバード・イマームバラというらしいが、上記のバラー・イマームバラと比較して小さいことからこのように呼ばれている。
e0074199_23595898.jpg 中央の建物のドームには金箔が貼られ、内部もたくさんのシャンデリアや金製の装飾品、宗教儀式用品などが展示されている。



英国駐在官官邸(総督代理公邸) 跡
e0074199_0154725.jpg 前述した通り、1800年に建てられた屋敷群。住居施設のほか、カンファレンス・ホールやダンス・ホールなどもあったようで、さすがイギリス軍の重要拠点ラクナウの施設だけある。

e0074199_0271361.jpg 1857年、インド軍がここを包囲し、持久戦に突入。立て篭もったイギリス軍及びその関係者3,000人は3ヶ月間援軍を待ち続けた。その後、援軍が到着するも、すぐには戦いは終わらず、戦死者・病死者・餓死者が大量発生する阿鼻叫喚の様相となった。この戦いで全体の3分の2にあたる2,000人が死亡した。
 残念なことに、当時の屋内を再現した博物館は定休日(毎週月曜日)のため観られなかった。


 この官邸の入口にあった説明板を見ていて、大変興味深いなと思ったことが1つ。
 それは、この1857年のムーブメントについて、繰り返し「First independence war」つまり第1次独立戦争という表現がなされていることだ。僕らの感覚(欧米人も恐らくそうだが)では、インドの独立とこれに及ぶムーブメントは、1939年のイギリス-ドイツ開戦による反戦運動から始まって1947年の独立に至るまでのせいぜい10年間くらいではないだろうか。我々の知る運動家(政治家)ガンディー、ネルー、ボースらはこの頃に活躍した人たちだ。インド人にとっては、このムーブメントは第2次独立戦争と意識されているようだ。
 ・・・なかなか興味深い歴史観の違いだ。



アンベードカル記念公園
e0074199_048386.jpg 文字通りアンベードカル(フルネーム : ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル)の功績を讃える意味で建てられた公園。市の中心部からはちょっと北西に離れたところにある。
 彼の活動については、以前メーラトというところに行った際に見かけた彼の像がキッカケで、色々関連書籍を読み漁った。
e0074199_119828.jpg 指定カースト(不可触賤民)出身であり、インド独立運動と同時期に、インドからカースト制をなくそうと尽力した政治家だ。彼は、ガンディーの採ったカースト制の枠組みの中で低カースト/指定カーストへの差別をなくすという甘い柔和策に真っ向から反対し、カースト制自体の破壊を唱えた。殆どの人は、ガンディーはカースト制に反対したと思っていないだろうか。かくいう僕もそうだった。実際はその反対・・・ガンディーは、最高カースト位ブラーミンのガッチガチのカースト制擁護論者だ。
e0074199_254358.jpg ガンディーとアンベードカルとの対立が最高潮に達したのは、1932年。イギリスがインドで高まる独立機運に対して団結力を削ぐ政策を打ち出す・・・職業や宗教のカテゴリーごとに代表者を選出して議会(国会や州議会)に参加させると言い出した。このカテゴリーがクセモノで、イスラム教徒・キリスト教徒を個別のカテゴリーにすることにOKを出したガンディーは、指定カースト(不可触賤民)は個別カテゴリーじゃなくて同じヒンドゥー教徒でしょという判断。これに対し、アンベードカルは、「社会の中で動物以下に見做されながら都合の良いときだけ同じカテゴリー扱いはないだろう」と猛反発。ガンディーはヒンドゥー社会から最下層者が抜けることに危機感を覚え、1人ハンガーストライキを敢行(今でもヒンドゥー至上主義者からは「死の断食」と賞賛されている)。結局餓死寸前までいって、アンベードカルが折れた。
 その後アンベードカルは結局、自身がヒンドゥー教徒である限り、これと渾然一体たるカースト概念のみを分離/破棄することはムリと断念、1956年に仏教に改宗してしまった。そしてその直後この世を去る。改宗を行った場所であるナグプールは、今なおインド仏教の一大活動拠点となっている。

 現在、彼の仏教思想(ネオ・ブッディズムと言われる)の継承者と言われているのは、なんと日本人僧の佐々井秀嶺。1968年にインドに渡って以降、下位カースト者・指定カースト者への仏教改宗支援活動、仏教施設の所有権闘争など、インドの仏教徒の顔になっている。
 一方、政治家としてアンベードカルの遺志を継いでいるのが、女性政治家マヤワティだ。大衆社会党(略称BSP)の女性党員であり、前ウッタル・プラデーシュ州知事でもある。ここまでは、女性首相が歴史的に存在するインドにあってはさして珍しくないが、彼女は指定カースト者なのだ。BSPの支持基盤は勿論指定カースト者。1997年の知事就任時には、この記念公園を訪問したそうだ。

 この広大な公園には、中央の建築物を除いて何も無い。アンベードカルの活動を記した石碑を読む人は僕以外に1人もおらず、高カースト家庭に属する思われる綺麗な制服を着た子供たちの修学旅行地、あるいは、これまた高カースト家庭に属すると思われる若者たちのデートスポットと化していた・・・皮肉な活用のされ方だ。



議事堂
e0074199_275561.jpg 州議会が開催される議事堂で、市の中心部にある。当然、中に入ることは出来ない。



迎賓館
e0074199_245378.jpg タクシーの運転手は、「サハラ」と言っていた。内容を聞くと、どうやら迎賓館のようだった。立派な門の下には神様の像が(ヴィシュヌ神かな、でも女神のような気も・・・)。
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オマケ

原宿系
e0074199_2105084.jpg こちらは、州知事邸の通りに並んでいたグッズショップの1つ。現在の政権政党である社会主義党(略称SP)と州知事ナラヤム・シン・ヤーダヴに関連するグッズがズラッと並ぶ。訳も分からず、思わず色々買ってしまった・・・。
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チキン
e0074199_2322846.jpg ここラクナウはチキン料理、なかでもカバブが名物。タクシー運転手ラーケスさんイチオシの定食屋へ。
e0074199_240345.jpg 店の外も中も結構混雑していた。手早く、カバブ(ハンバーグ風)・ビリヤーニ(炊込みゴハン)・チキン丸焼き・ロマリーロティ(生地のうっすーいロティ)を頼む。とっても美味。しかもリーズナブルな価格(1品20ルピー前後)。
e0074199_2402274.jpg 地元ではちょっと有名な店のようで、店内にはシャー・ルク・カーンやアミターブ・バッチャンら有名芸能人と店主との2ショット写真がたくさん飾ってあった。この辺の感覚は、日本のラーメン屋と変わらないな。



チカン
e0074199_2404879.jpg チキンの他に有名なのが、チキンならぬチカン。太い糸での刺繍(ハンドメイド)が特徴的なシャツ・クルタ・サーリーなどの衣類品が名産品だ。
 目ざとく卸売り店を見つけ、無理矢理小売して貰った。シャツ1枚100~1000ルピー(約250~2500円)。素人目には、なかなか良い出来だと思う。



オススメ度(100%個人主観)

   ★★★★☆



by bharat | 2005-12-20 10:30 | インドぶらり旅
B級グルメ6 ミスティ・ドイ

 デリー市内のどこのマーケットでも見かける、「MOTHER DAIRY」ブランド。
 インドに根を張る一大乳関連品会社で、牛乳やチーズ、ヨーグルト、アイスクリームなどの製造販売は元より、これらの自宅配送なども行っている。

 今回は、そんな製品ラインアップから見つけた掘出し物。

ミスティ・ドイ
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e0074199_23314468.jpg こちらのヨーグルト(Curdと総称している)は、往々にして甘味が全く無く、カレーの付合せや、ラヒタ(ヨーグルトに玉葱などを混ぜたインド料理)に使われる。甘味のあるヨーグルトを食べたければ、糖分タップリに欧米の輸入物を食べるしかない。
 このミスティ・ドイは、程良い糖分調整と弾力性で、ヨーグルトとプリンを合わせた様な食感。とても美味。値段も1個6ルピーと手頃(インド人消費者にとってはちょっと高く映るかも知れないが)。同じブランドの毒々しいアイスクリームを食べるなら、こちらの方が健康的(な気がする)。
by bharat | 2005-12-09 11:15 | インドB級グルメ