タイ ~多分にヒンドゥーな仏教国~
今回初めてタイに行った。
ASEAN諸国の中にあって、日本との結びつきが特別に強いイメージがあるこの国。 今回訪れたのは、首都のバンコク(Bangkok、旅行記はコチラ)だけだったが、色々と勉強になった。 国の概要 名称 : タイ王国 面積 : 51万4,000km2 人口 : 6,242万人(2005年現在) 首都 : バンコク(Bangkok) 人種 : タイ族(85%)・中国系(10%)・マレー族/山岳民族など(5%) 言語 : タイ語 時差 : 日本時間 - 2時間 国教 : 上座部(小乗)仏教 人口比率的には仏教(95%)、イスラム教(4%)、キリスト教/ヒンドゥー教/スィク教など(1%) 通貨 : バーツ (1バーツ≒3円) 産業 : 第1次産業従事者40% GDPに占める割合10% 輸出産業としては天然ゴム産業 第2次産業従事者15% GDPに占める割合35% 輸出産業としてはコンピュータ・自動車関連 貿易 : (輸出) 米国、日本、中国、シンガポール、香港 (輸入) 日本、中国、米国、マレーシア、UAE 体制 : 立憲君主制 国王はラーマ9世 (正式名プーミポン・アトゥンヤデート) 1946年6月に即位したのでなんと在位61年!! 政府 : スラユット・チュラーノン暫定首相 昨年のクーデターについては、 「国の歴史」で後述する 国旗 : 一番幅広の紺色は王室、 白色は仏教、 赤色は国家 を示している 国章 : 仏教国なのにガルーダ (ヒンドゥー神話に登場する聖なる鳥) 国樹 : ラーチャプルック 国花 : ゴールデンシャワー 国の歴史 タイが所謂「国家」としてその歴史をスタートさせたのは、1238年にタイ族のイントラチットがスコータイ(Sukhothai)王朝を建てた時点だと言われている。 これ以前は、マレー族やモン族が局地的な都市文化を形成していたのみで、カンボジアのアンコール発祥のクメール王朝もタイ地域一帯を支配したが、タイ独自の国家があった訳ではない。 スコータイ王朝は、クメールの影響力が弱まってきた13世紀にタイ一帯を掌握、統一国家を作り上げました。第3代のラームカムヘーン王の治世期にその版図は急拡大、内政面でも上座部仏教をスリランカから輸入したこと、統一文字の制定、貿易拡大など大きく発展した。しかし、この名君の死後、国は急速に力を失い、アユタヤ王朝に吸収されてしまった(1438年滅亡)。 アユタヤ王朝は、文字通り首都をアユタヤに置いた王朝で、ウートーン王が1351年建国した。正式に即位後、王はラーマーティボーディ-と名を変えた。 同王朝は、周辺各国との知れるな生存競争を約400年に亘って生き抜いたが、そのベースには、建国者ラーマーティボーディ-の巧みな国内統一政策が根幹を成していた。 彼は、タイの中世の基本法典となった三印法典を制定した。この法典は、スリランカから取入れた上座部仏教(小乗仏教)を基軸に、タイに固有の習慣、ダルマシャーストゥラ(インドにおける倫理・道徳・価値観・法律・社会制度を記した書物で、特にマヌ法典が有名)を組み合わせて出来たもの。 同国は、海路の重要拠点としても機能し、中国・インドなど近隣国は勿論のこと、ヨーロッパの国々や日本とも貿易を行っていた。 日本とは、1425年から1570年までに合計68隻の琉球船が往来していたとの記録が残っているし、時の室町幕府が朱印船貿易を行っていたとの記録も当時の日タイ貿易の事実を裏付けている。 また、この関係は江戸時代になっても途絶えること無く継続し、江戸時代初期の記録では幕府公認の交易船56隻が日本―タイを往復していたとある。当時、沢山の鉱石を産出した日本からは、銅が主たる貿易品だった。 また、このアユタヤ期に、忘れてはならないのが、山田長政(1590~1630)だ。 彼は、17世紀初頭にアユタヤの日本人町に移り、日本人傭兵部隊で活躍した。時のアユタヤ王ソンタムから厚い信頼を受け、南部の王国の知事にまでなった。最後は、アユタヤの追う継承問題に巻き込まれて毒殺された。 象にまたがって戦う姿が、日本史の教科書にも掲載されていたと記憶している。 だが、この山田長政は、歴史的捏造とする説がある。 まず、肝心のアユタヤ王朝側の文献に、山田長政やこれに相当する現地語の名前が登場する文献が無いこと。 加えて、日本での論拠となる文献も実に信頼性が低いこと。 大東亜共栄圏構想下の時代に、日本と東南アジアを友好的に連想させる話を丸ごと作り上げてしまったというのが捏造説支持者の論。 果たして真相は如何に。 話はタイから少し逸れたが、山田長政が活躍した(であろう)アユタヤ王朝は、1767年にビルマに侵略されて滅亡した。 ビルマ軍にビクつくアユタヤの暗君エーカタットを見限って、中国系タイ人のタークシンが独自勢力を形成し、ビルマ軍を撃退、自らトンブリーに王朝を建てた(1767年)。 彼は、右腕のチャオプラヤー・マハーカサット・スック将軍らとともに失地回復・版図拡大を行っていたが、自分に王家の血が入っていないことを過剰に気にする余り、精神異常を来たしてしまう(一説には、円滑な王位禅譲を狙って、狂乱した振りをしたとも言われている)。 1782年、タークシンはチャオプラヤー・マハーカサット・スック将軍によって処刑され、トンブリー王朝は滅亡した。 チャオプラヤー・マハーカサット・スックは、バンコクに遷都し、ラーマ1世を名乗った。 チャクリー王朝と呼ばれるこの王朝は、ラーマ7世の治世期に絶対君主制から立憲君主制に移行、1946年から現在に至るまでラーマ9世が治めている。 同君は、名君としてタイの中で絶対的な支持を集めており、国全体の求心力として機能している。 2006年の軍事クーデターの後、軍部が同君にひざまづいて状況報告を行ったシーンは実に象徴的だった。 このクーデターの経緯は、外務省HPより引用するに以下の通りである。 ・・・2006年2月、首相批判の高まりを受け、タクシン首相は下院を解散。4月、主要野党ボイコットのまま下院総選挙が行われたが、後に司法当局は選挙を違憲・無効と判じた。9月、陸軍を中心とするクーデターによりタクシン政権が倒れた後、スラユット枢密院顧問官が暫定首相に就任。暫定政権の下、新憲法草案の起草が進められている。 昨年末の爆破事件もあり、昨年はタイにとって不穏な出来事が続いた年といえる。 首都バンコクは2007年早々に平穏を取戻しており、何ら治安の悪化を感じる要素は無かったが、注意するに越したことはないということなのだろう。 今尚垣間見られるヒンドゥー的要素 国民の殆どが仏教徒であるタイだが、ヒンドゥー教の影響が色濃く見られる。 ・ まず、国鳥が、ヒンドゥー神話に登場するガルーダである ・ 仏教寺院に何食わぬ顔をしてヒンドゥー神ガネーシュがいたりする ・ ブッダがナーガ(蛇、ヒンドゥー神話にしばしば聖なる動物として登場する)と一緒にいる場合がある。 ・ インドの2大叙事詩の1つ『マハーバーラタ』の話がそのままタイでも流布されている これは、恐らく古くはヒンドゥー教(まだバラモン教と言っていた時代)を進行したクメール王朝の影響、更にはアユタヤのラーマーティボーディ-王が定めた王国の基本法典にインドの要素が盛り込まれていたことなどに因るのだろう。 そもそも、タイ国王の呼称「ラーマ」だって、インドの神様の名前だ・・・何か関係あるのだろうか・・・? →第95回旅行記「バンコク」
by bharat
| 2007-01-24 10:30
| インド周辺国ぶらり旅
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2年間のインド生活で、どこまでインド人に近づけるか!?
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